飯沼貞雄君事蹟



氏は安政元年三月、会津若松大町通に生る。幼名を貞吉と言い、後ち明治三年三月に至り、貞雄と改む。
父時衛は食録五百石を領し、家世々会津侯に仕えて物頭役を勤む。父に弟妹あり、弟を友次郎といい、妹を千重子という。千重子は十七歳にして国老西郷頼母(現存保科君なり)に嫁す。母玉章は西郷近登之の三女なり。齢十八歳にして時衛に婚す。氏はその二男なり。稍々東西を弁すの頃より巍然頭角を顕し、活発怜悧の聞こえあり。年十歳にして藩立の学校日新館に入り、三等より一等迄の卒業を為し、その賞与として本註小学一部、近思録一部を下賜せらる。十五歳にして講釈所に及第す。剣道は武井酉次郎の門に入り安光流を学び、槍術は安藤市蔵の門となり、馬術は笹原弥五郎に就き大坪流を学ぶ。弓術は樋口友弓に就き道雪流を学べり。然れども氏は毎に銃を好み、十二歳の時、藩中の横田某に就き砲術を修む。当時砲術を学ぶ人藩中に少しという。

氏は戊辰三月、士中白虎隊に編入せられ、仏(フランス)の兵式を鍛錬し、八月二十三日、隊長の回章氏の邸に達するや、一読して慈母の前に示し、武器を取り揃い、軍服を着す。母、戒めて曰く「汝、年已(すで)に十六歳、戦場に臨みては君命を奉じ一歩も退く可からず」と筆を採り、一首を録して与えられたり。その歌に曰く

   あづざゆみむかふやさきはしげくとも
          ひきなかへしそもののふの道   玉章

氏はこれを守にし、訣別の為、外祖父西郷家に立ち寄り、実戦によりては前途の永訣とならんことを述ぶ。外祖母、感涙襟を濡らし、左の一首を録して氏を門外に送られたり。

   重き君軽き命と知れやしれ
          おその媼のうへはおもはで

而して氏は直に城中に至り、藩主を警衛して滝澤村に至り、戸ノ口原に敵軍を逆い、戦い力尽き、遂に飯盛山に退き、慈母の一歌を再吟し、西南を臨んで城を拝し、刀を把り、氏は咽喉を衝き死に至らず、再び短刀を咽喉に宛て双手に生草を握り、体勢を加えて前に進み、遂に斃る。年十六歳、実に今を去る廿六年前、即ち戊辰八月廿三日なり。

此の日、印出某の妻、乱を遁れ、間道より城下の東なる滝澤村の知己に寄らんとして山中に在り、事の急なるを見、現場に臨み、或いは一臂を副ることもあらん、亦、我が子の死生も如何なりしと胸中大いに悸い血場に至る。現場の義血灌て流すが如く、或いは目を瞑らし或いは歯を切し、君を思い国を憂うの情血に塗れて其誰なるを弁せず。その悲壮なる心を刺して、目見るに忍びず、毛髪森然として寒らしむ。老婦の進退、茲に谷れり。然れども、我が子に非るは慥(たしか)に見分けて心を鎮め、諸士の親情如何ならんと手拭いを潤し来り、子等の口に灑(そそ)ぎしが、奇なる哉、最も弱齢にして体も小なる或義少年、微かに手を振い、足を動かしたり。老婦は愕きつつ美玉を膝に抱い、白面の義血をすすり、鼻目を明にし、口言わんとして嗚咽謂う能わず。漸く近傍の炭焼小屋に至り、用意の薬を与い、疵は深く、氏は疵に手を宛て、言う。「我は時衛の二男なり」との一言。老婦の耳朶に達し、再び息は絶えなんとしたり。老婦は周省驚愕、種々に手を尽くし、手拭いを潤して亦水や薬を与い、漸く元に蘇り、流す涙は諸共に、氏は力竭(つ)き共に誓いて自刃を為したるの一事を述べ、「疵も深ければ我が一命は最早是迄なり、若し我が父母の世にあらば、此の始末を語り告げられよ、敵軍は四方に入り乱れしならん、御身は早く此の難を避けられよ」。老婦曰く、「死は易く生は難し、城は堅固にして落ちざる可し。生きて死す可き時は亦有らん」と力を添え、「薬も既に尽きたれば、次なる村へ下り、我が帰り来るまで待ち給う可し」と、氏の体に藁莚を懸け、老婦は山路を分けて下れり。

氏は印出の老婦に分れて疵は益々激痛し、神疲れ、砲声未だ止まず。蓋し一樹の蔭、一河の流、皆是れ他生の縁とは雖(いえど)も、斯く見も識らぬ老婦に救護を受けんとは如何なる事と。
跫然、麓方に宛り小屋に入り来るものあり、氏の傍に寄り曰く
「下郎は昨戦より石筵の御陣所へ人足に当たりし冬木村の只蔵と申す者にて、今日の敗軍に山中に隠れ、谷亦谷と伝え、漸く此の麓に来りしなり」と、氏の様子を探り、「御身は案内を知りたる者を頼み来りて御城中に達せん、今野武士の族多し、何卒御身の大小を暫時借用し、用心に充て度し」と欺けり。氏は苦痛の余り、何の思慮もなく貸し与い、稍々ありて「此戦乱に人を傭うも些少の金にては傭い難し、御用意の金も有せなば預け給い」と。氏は国内の者にしあれば偽りとは知らず、守り嚢に在り合わせたる金をその人足に渡したり。

氏は独り鬱蒼たる山中の炭焼小屋に在り、疵亦肉を刺すが如く頻りに痛み、彼の人足は来んが印出の老婦は如何せしやと。漸く印出の老婦は義弟を(義弟とは夫新蔵の弟にして少々医術の心得ありし人なりをいう)伴い、阪道より来りて、種々に介抱を尽くし、持参の薬石を与い、氏は老婦に分れし後の有事を述べ、飲食医薬も山中の事にて自在ならず、又敵兵乱入して到底城に入ること難事なり。是より氏と老婦は小田付村の病院に至らんとし、塩川村の近傍に至り、氏の血色益々変じて見るに忍びず、医薬を求めんと老婦は村内を馳せ廻りしに、村内の百姓共各竹槍を携え、氏を取り囲み、狂狗の吠ゆるが如く賊よ敵よと叫び、氏は其の意を解すること能わず、今にも衝き殺されんとの勢いなり。老婦は図らざりき斯の如き事あらんと漸く其の無礼を取り鎮め、一名の重立ちたるもの捕い、村の名主に迫り、其の故を問う。然るに、昨戦以来敵兵村内に乱入し、財宝を掠奪する事屡々なり。因て、塩川代官の達しもあり、此等のことより無礼に及びしならんと、名主は平身低頭して、其の罪を謝す。
氏は歩行も為し難く、名主の計らいにて籠に乗り、夜に及んで塩川村なる近江亭に着し、老婦は主人に謀り、諏訪某なるものの医薬を仰ぎ、又長岡藩の士兵米澤に至るに会し、此の亭に在り、因て同隊附の軍医に施術を請う。軍医曰く、「此の疵は気管を破りたれども動脈を避けたり、治療の方法に依りては年若き人なるにより或いは全癒す可し」と。氏の神気も追々快爽となり、老婦と共に小田付村の病院に至り、治療を為し、疵も快方に趣き、室内運動も出来得る丈けに成り、老婦は未だ実子の死生も詳ならざれば、是より城下に至り、捜ねんと再会の訣言を遺し、互に訣別せり。

氏は病院に在りて疵の癒ゆるを以て再び敵軍に臨み、嚮に誓いし霊魂を慰めんと追懐羨慕暗涙襟を濕(しめら)す。想うて茲に至れば、悒欝交々胸間に迫り、泣飲語る能わず。
当時戦乱旺にして、砲声天地に響き、弾丸は忽ち院内を貫き、猛火焔々村内を焼く。氏は此の難を避け、喜多方村に至り、庄屋池上某の宅に寄り、日々治療を加え、心潜に嘆して曰く、「吾出陣の際、母の諫めし事あり。今疵のあればとて、一と度飯盛山の朝露となり、蘇りしこそ却て不幸の不幸なり。然れども、事茲に至りては速に疵を癒し、暫く忍びざるに忍び、暫く堪えざるに堪え、尚奮戦後事の策あらん」と。

偶々飯沼家の家僕藤太なるものあり、氏の出陣後、家人を城内に送り、隊中氏は最も弱齢者なるを以て深く氏の一身を苦慮し、白虎隊は奮戦力竭きて遂に飯盛山に自刃し、隊中一人の蘇生せし者あるを聞き、戦乱中百方に奔走し、藤太の苦心空しからずして漸く氏と喜多方村の庄屋池上勇蔵方に邂逅したり。当時氏の患部は医薬に乏しきと時気の変遷とによりて益々鼻爛し、飲食呼吸漸くにして体勢を養うに至らざりし。氏は家僕藤太に伴われ、城中に入る。氏の父また城中に在りて、共に再会の胸襟を語る。城中の糧仗尽きて亦支えず。是に於いて我軍降を請うの意あり。諸将士相議して曰く「我が藩天下の大兵を受け、死は固より其分なり。今日豈降を説く可けんや如かす城を枕に決戦して、死者を地下に慰めん」と。或いは曰く「首謀を出して以て君の罪を申雪し、無辜(むざい)の民を救うに如かす」と。藩主、兵を収めて降旗を西北二門に樹つ。戦乱漸く止む。後、藩主の東京に移らるるに当たり、氏も亦護送せられて謹慎の身となり、明治三年十一月、藩主学生を諸方へ遣わさるるに当たり、氏も亦選れて静岡に至り、林三郎の塾に入る。居る事一年、留学生廃せらるるに当たりて藤澤次謙に就く。同氏出仕の身となるに及んで、共に東京に至り、同氏の斡旋に依り電信修技校に入り、遂に業を卒え、職を技術に奉じ、今猶逓信省の電信建築署長たり。

     附 記
飯沼家の僕藤太は、同家に勤むる事十三年一日の如く、曾(かつ)て過失のありしことなし。戦乱の日は(即ち八月廿三日)家夫人を城内に送り途上西郷家に寄り、安否を伝う可きの命を受け、西郷家に至る。同家は已(すで)に皆自刃の後ちにて、命を果たす事能わざりしと、是より直ちに藤太は滝澤村、或いは戦場に至り、白虎隊の様子を聞き、種々の艱難辛苦を経て鴨村小田付村等に至り、隊中一人氏の蘇生せしを捜り聞き、終に喜多方村の庄屋池上勇蔵方にて始めて邂逅せしなり。
西郷家とは、西郷頼母氏なり。同氏は藩主の京都守護職たりしとき時勢を説きて御退職を勤む省せられず、此日事急なるを聞き、城中に入り、兵を率いて奮戦す。其の妻千重子(千重子は飯沼氏の叔母なり)、幼子を刺し、左の一首を残し、自刃せりと言う。

     なよ竹の風にまかする身ながらも
          たわまぬ節はありとこそきけ




『白虎隊事蹟』(中村謙著)より
原文に句読点を付け、旧仮名遣いの読み難い部分を現代仮名遣いにあらため、改行を入れるなどして出来るだけ読みやすくしました。



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