入江九一 (いりえ くいち)

 

入江九一(杉蔵)/ 1837(天保8年)−1864 (元治元年)/ 長州藩士
変名:河島小太郎 /
諱:弘致・弘毅 / 字:子遠 / 雅:松白

 

1837年(天保8年)4月5日、下級武士(足軽)入江嘉伝次の長男として萩に生まれる。幼名は万吉。
13歳の頃より藩の下役に就く。安政3年7月24日に父が死去、家計を助ける為に翌年3月江戸藩邸に勤務。
安政4年9月、中谷正亮から杉蔵についての情報を得ていた松陰は、吉田栄太郎(稔麿)を介して来塾を勧誘。しかし、この時は公務で江戸に居た為、村塾への入門が実現したのは翌年7月初旬。高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿と共に『松門四天王』に数えられる。師・松陰の影響で、早くから尊王攘夷運動に奔走するが、安政6年2月、弟・和作の脱藩行に連座して投獄される。
松陰の刑死後は久坂玄瑞主宰の村塾の中心メンバーだったらしい。文久元年2月、藩命で常陸へ。水戸藩内の動向を探る為、乞食に身をやつして情報収集に努めた。文久2年4月、久坂の兵庫出張と前後して上洛。翌年1月、身分が士雇に挙げられ、姓の公称を許された。同年6月、高杉晋作による奇兵隊創設に助力。元治元年夏頃まで京坂地方に潜伏して情報収集に当たっていたが、7月19日に勃発した禁門の変において討死。享年27歳。

 

松陰門下で最も清廉潔白だったのは、この入江九一ではないだろうか。
安政5年12月、松陰の下獄の際、多くの門下生が離れてゆく中で、彼は最後まで師に追従した。10月、江戸に居た吉田栄太郎(稔麿)に宛てた手紙に、『栄太早々に帰レ先生之もりニこまる人ばかり也』(海原徹著・『吉田松陰と松下村塾』より)とこぼし、帰郷を促していたりもするが、獄に繋がれることになってもなお、弟・野村和作と共に松蔭への師事を貫いたのである。
1年余りを獄中で過ごすことになった杉蔵(九一)だが、勉学を疎かにすることなく、3歳下の久坂玄瑞に手紙で読むべき書や学ぶべき方向を尋ねていたという。

獄を出てからは久坂を助けて村塾に学び、文久年間には上洛。また、高杉晋作が創設した奇兵隊の幹部でもあった。彼に関する資料は残念ながら多くはないが、知られている経歴から判断するだけでも、彼がいかに長州藩の尊攘運動に貢献したかを読み取ることが可能である。

意志が強く、真面目で、驕ったところがない好人物。そんな印象を受ける彼も、幕末の世に壮絶な最期を遂げた一人である。四天王に称されたほかの3人同様、彼もまた『もし明治の世を生きていたなら…』と悔やまれる人物であることに疑いはない。

 


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