京都御所

 

 

 

蛤御門(左)と清水谷家の椋(右)

 

元治元年(1864)8月19日の禁門の変で、最も激戦の地となったのがこの辺り。この大きな椋の木は、当時ここに清水谷という公家屋敷があったことから、「清水谷家の椋」と名付けられた。長州藩士・来嶋又兵衛がこの木の付近で戦死したという。

 

 

堺町御門(左)と鷹司邸跡(右)

禁門の変の際は越前(福井)藩が守護していたが、久坂玄瑞らが内門の鷹司邸に嘆願の為に進入し、戦闘になった。久坂は鷹司邸で寺島忠三郎と共に自刃。入江九一もこの辺りで戦死したと伝わる。

 

 

学習院跡(左)と猿ケ辻(右)

学習院は、弘化4年(1847)、孝明天皇が40歳以下の公家と御所に勤めている役人およびその子弟に学問を教える場として設立。久坂玄瑞ら学習院出仕の勤皇派の志士達が公卿達と面会した活動拠点でもある。

猿ケ辻は、文久3年(1863)、尊攘激派の公卿として知られる姉小路公知が刺客に襲われた場所。

 

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