久坂玄瑞誕生地

 

ちょっと字が読み難いけれど、久坂玄瑞の生誕地。


久坂玄瑞(義助)/ 1840(天保11年)−1864 (元治元年)/ 長州藩藩医 → 長州藩士
変名: 松野三平 /
諱: 誠・通武 / 字: 実甫 / 雅: 秋湖・江月齋

 

1840年(天保11年)5月、長州藩藩医(寺社組本道医道三流)の久坂良迪の三男として萩に生まれる。幼名は秀三郎。明倫館で学んでいたが、その後医学所好生館に入る。
嘉永6年、母が死亡。翌年には長兄・玄機と父を相次いで失い(次兄は夭逝)、15歳にして天涯孤独の身となる。
安政元年6月、名を玄瑞と改め、家督を継ぐ。知行高は二十五石。

安政3年3月、九州遊学。帰郷後、吉田松陰と文通を始め、6月に松下村塾に入門。師・松陰から『防長第一流の人物』と、その際だった才能を高く評価され、のちに高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』、吉田稔麿を加えて『松陰門下の三秀』、入江九一を入れて『松門四天王』と称される。
安政4年12月、松陰の妹・文(ふみ)と結婚。松陰の刑死後、門下生たちのリーダー的存在となり、国許と江戸・京都で尊皇攘夷運動に身を投じ、藩を超えた尊攘派の中心人物となる。

文久2年6月、対立を深めていた藩の重臣・長井雅楽を暗殺する計画を練るが失敗。京都藩邸に自首し、謹慎処分となる。9月に謹慎が解かれると江戸に向かい、12月に英国公使館を焼き討ちするなど過激な攘夷運動を繰り返す。その後、土佐の中岡慎太郎と共に信州の佐久間象山を訪ね、京都に戻って武市半平太(土佐)、宮部鼎蔵(肥後)らと今後の活動について協議した。このころには、長州の久坂玄瑞の名は、尊攘・倒幕派志士たちの間に広まっていたと思われる。

文久3年4月、攘夷期限が決まると、吉田稔麿・入江九一・野村和作・山県狂介らと共に帰郷、馬関にて光明寺党を結成。この頃より蓄髪を許され(長州藩では藩医は剃髪が規則だった)、平士(大組士)となり、義助(よしすけ)を名乗る。攘夷決行後、京都に向かい、三条実美ら長州派の公卿や他藩の志士たちと攘夷親征に奔走するが、8月18日、中川宮を中心とする会津・薩摩両藩の公武合体派によるクーデターが起こり、長州藩は皇居警備の任務を解かれ、失脚させられてしまう。所謂「八・一八の政変」で、長州派の7人の公卿たちは京都を脱出、長州へ落ち延びた。久坂は天王山の辺りまで同行するが、再び京都へ舞い戻り、攘夷倒幕運動の中心人物として東奔西走する。

元治元年6月5日に起こった池田屋事変で多くの志士を失った長州藩は翌月挙兵、京都御所へ進軍。久坂は進軍に反対であったが、来嶋又兵衛の強行策に屈せざるを得ず、幕府軍と死闘を繰り広げる(禁門の変)。しかし長州藩はこの戦いに敗れ、久坂は鷹司邸内で自刃。寺島忠三郎と刺し違えて果てた、との説もあり。享年25歳。明治24年、贈正四位。

 

 

上記の記念碑もあります。

 

 

戻る