善昌寺
長岡市栃尾原町2丁目にある善昌寺は、戊辰時、仙台藩の黒澤楽兵隊が宿営していたところです。
慶応4年7月24日、長岡藩兵が長岡城奪還を目指して八丁沖渡渉を実行しようとしていた時、栃尾残留の仙台藩、米沢藩の兵が土ヶ谷の西軍を攻撃しました。嶋田進著『戊辰の語り伝え』によると、八丁沖渡渉の陽動作戦と思われる、とのことです。26日払暁、彼らは土ヶ谷を手中に収めましたが、黒澤隊の隊長・八木友吉と隊員3名、仙台藩の軍監2名、米沢藩兵1名が戦死、28日にこの善昌寺に埋葬されました。
本堂と、戊辰戦役戦死者墓。
墓碑は左から、
善昌寺住職の弟 16歳
米沢藩・神田五郎次 17歳
仙台藩・平渡清太夫
仙台藩・吾妻敬三良
仙台藩・和歌山粂之助
仙台藩・鈴木昌之助
仙台藩・鈴木惣兵衛
仙台藩・八木友吉
仙台藩士の戒名には、全員「忠」の字が入っています。
(参考: 『戊辰の語り伝え』 嶋田進著)
【追記】
仙台藩の黒澤楽兵隊について、KOKOさまより情報をいただきました。
「黒澤楽兵隊」は、当時としては珍しい軍楽隊(フランス様式装備の精鋭部隊)です。黒澤壱岐俊親は、現在の宮城県北部の中津山の邑主で3000石を有していました。
慶応4年5月19日に新政府軍が長岡城を落とした月末、俊親に長岡藩救援の命令が下りました。急遽、隊を編成し、八木友吉高明を隊長に、従卒2、大工1、軍医2を含め90人で6月13日仙台城下を出発しました。7月1日新潟着、7日栃尾の善昌寺に本陣を構えた。24日(25日とも)黒澤隊4人が戦死。仙台藩6人が戦死した記録になっていますが、法名で居士の二人は仙台藩本藩の軍監です。この軍監たちと意見が合わず、八木らはしゃにむに吶喊して亡くなり、その軍監たちも戦いの最中亡くなるという事態になっているようです。
(KOKOさま、情報どうもありがとうございました!)