栄涼寺



新潟県長岡市東神田3丁目にある栄涼寺は、元和5年(1619年)5月、初代長岡藩主牧野忠成公によって開基されました。歴代藩主および藩士の菩提寺であった栄涼寺も戊辰の戦乱に巻き込まれ、西軍の野戦病院となっていましたが、戊辰7月、長岡城奪回戦で長岡藩兵によって焼かれ、墓石の半数以上が倒壊したそうです。明治になって再建され、同38年に完成しました。



 

鐘楼と戊辰戦争での戦没者供養塔。小林虎三郎の詩碑も傍にあります。



 

(写真左) 二見虎三郎の墓   (写真右) 三島億二郎の墓

二見虎三郎 (ふたみ とらさぶろう)
長岡藩軍目付(いくさめつけ)、後に銃卒隊長。天保6年(1835年)生まれ、通称:虎三郎、名は正直。世禄は65石。
第二次幕長戦争(第二次長州征討、四境戦争)に従軍。戊辰時は33歳、銃卒隊長として各地を転戦。慶応4年8月25日、会津若松の七日町口の戦いで負傷し、9月14日、山形で死去。

三島億二郎 (みしま おくじろう)
文政8年(1825年)、長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。同藩士の川島家を継ぎ、後に姓を三島と改めた。
北越戊辰戦争後、再興された長岡藩の大参事となり、窮乏に瀕した士族の救済にあたり、教育・文化の育成にも尽力。また、北越殖民社を設立、北海道開拓にも力を注いだ。明治25年(1892年)、68歳で没。


 

旧越後長岡藩主歴代の墓。写真右は、戊辰時の藩主・牧野忠訓公と夫人つね姫の墓碑。



 

河井継之助の墓。

河井継之助 (かわい つぎのすけ)
文政10年(1827年)1月1日、長岡藩士・河井代右衛門秋紀の長男として生まれる。24歳の時、7歳下のすが(長岡藩士・梛野嘉兵衛の妹)と結婚。26歳で江戸に出て、佐久間象山の塾などで学ぶ。安政4年(1857年)、家督を継ぎ、藩では外様吟味役に起用された。
翌安政5年(1858年)、再び江戸へ向かい、さらに西国への旅に出、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の陽明学者・山田方谷(やまだ ほうこく)の門下で半年間学んだあと、万延元年(1860年)に帰郷。
慶応元年(1865年)に起こった山中村(現在の柏崎市)の庄屋と村民の闘争を解決したことから、藩内で昇進を続け、藩の組織・財政改革をはじめ、藩士の規律を正す政策(賄賂・賭博の禁止、遊郭の廃止等)を行い、禄高是正や門閥解体に着手。商業の発展にも尽くした。
慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まると、家老上席となっていた継之助は恭順派の意見を退け、近隣諸藩が新政府軍に帰順していく中、武装中立論で沈黙を続けた。4月26日、芋坂・雪峠で西軍が会津軍・旧幕府歩兵隊を破って小千谷に迫ったため、軍事総督に任命されていた継之助は、27日に摂田屋の光福寺に本陣を置き、防戦態勢を整えた。5月2日、長岡藩の運命を決したといえる「小千谷談判」(土佐藩士・岩村精一郎との会談)が開かれた。会談は決裂し、継之助は徹底抗戦を宣言、長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加。長岡藩は援軍の会津藩、米沢藩、桑名藩、衝鋒隊などと共に榎峠・朝日山の戦いで勝利するが、5月19日、濁流の信濃川を突破した西軍に守備が手薄な城下を攻撃され、平城の長岡城は落城。継之助も本陣から駆けつけてガトリング砲で応戦したが、時既に遅く、藩主一行は栃尾方面から八十里越を越えて会津に向かった。藩士たちは悠久山に集結し、栃尾へ撤退。その後、継之助は加茂に本陣を定め、長岡城奪還作戦を打ち出し、同盟軍の諸将にのみ伝えた。そして7月24日、八丁沖の奇襲作戦を成功させ、長岡城奪還を達成。
対する西軍も、会津討伐越後口軍と称して大量の兵士を送り込み、7月29日、再び長岡城は陥落。継之助は敵の銃弾で左足を負傷、藩士たちと共に八十里越を経て会津に向かった。このとき、継之助が詠んだ自嘲の句が、「八十里腰抜け武士の越す峠」である。
継之助は軍医・松本良順の治療を受けるが、もう手の施しようがなかった。従者の松蔵に棺と骨箱を作らせた継之助は、8月16日午後8時頃、塩沢村の医師・矢沢宗篇の家で死去。享年42歳。
(参考: 「越後長岡 戊辰・河井継之助ゆかりの地 ガイドブック」 長岡市観光課 編集・発行)



 

(写真左) 秦八郎(波多謹之丞、長岡藩先鋒銃士隊長)、杉山道喜(長岡藩弓術指南役)の墓
(写真右) 西軍供養墓



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