津川 (高崎駒之助戦死の地、新善光寺、正法寺、保科正興の塚)
新潟県東蒲原郡阿賀町の津川は、かつて会津藩領でした。そして、元治元年7月の蛤御門の変にて三番槍の功績をあげた町野源之助(後、主水)が、京都に来る途中で起こした騒動の責めを負い謹慎を命ぜられた処でもあります。
津川駅の近辺と阿賀野川。
会津街道(国道49号)沿いの八木山に、白虎寄合一番隊士・高崎駒之助戦死の地の案内板があります。嘉永5年2月にこの地を訪れた吉田松陰宿泊の地などと一緒に並んでいます。
高崎駒之助は8月24日の戦いで負傷、後送される途中で重体に陥り、八木山で村人たちの手厚い看護を受けましたが、9月5日に息を引き取りました。
所在地は、新潟県東蒲原郡阿賀町八木山周辺、国道49号沿いの「吉田屋酒店」の向かい側から細道を下りたところ。
高崎駒之助戦死の地の近辺。
新善光寺の藤森八太郎の墓。白虎寄合一番隊所属で、8月25日に戦死。この地に埋葬されましたが、戊辰後、遺族によって若松の井上浄光寺に改葬されました。
所在地 : 新潟県東蒲原郡阿賀町津川3313
津川の正法寺にある、西郷四郎の分骨墓。長崎市の大光寺より分骨され、四郎の生家・志田家の菩提寺である正法寺にも墓が建てられました。
「さすらいの丘」と呼ばれる、会津藩家老・保科民部正興の塚。上記の写真は、正興の墓と殉死した人々の墓。
家老職にあった正興は政争に破れて失脚、貞享3年(1686)にこの地へ流されました。その後、許されることなく、元禄2年(1689)8月に死去。失脚の理由は、藩主・保科正之の侍妾で後に継室となったお万の方(聖光院)の専横を阻止できなかったことに起因し、また正興の後妻が聖光院の姪であったために、正興はいわば聖光院の身代わりとなって処罰されたと言われているそうです。(阿賀町役場HPより)
所在地 : 新潟県東蒲原郡阿賀町日出谷甲2278