きらきらしいひと ―町野久吉―

 

 町野久吉(戊辰時16歳。17歳説もあり)は、白虎隊士ではない。しかし、白虎隊編成時に若松に居たならば、その年齢から士中隊に配属されたはずである。彼はもっと早く戦いたいと願い、戊辰三月、兄・源之助が郡奉行として赴任した越後国魚沼郡小出島(会津藩の飛び地領)に随従したのだった。

 久吉は、会津藩士・町野伊左衛門(家禄三百石)の四男に生まれた。
 熱い男である。会津戦争時、佐川官兵衛の後任として朱雀士中四番隊を率いた兄・源之助に劣らぬ槍の使い手だった彼は、戊辰の年閏四月二十四日、三国峠で西軍と相対した際、家伝の長槍を手に兄の制止を振り切って、敵の直中に飛び込み、一番槍の功名を挙げて壮絶な戦死を遂げた。敵の銃弾降り注ぐ中、雑兵には眼もくれずに敵将目掛けて突進した彼は、銃弾を受けて膝を突きながらも、敵兵三人をその槍の餌食にした。驚き怖れた敵軍は総力戦でついに彼を討ち取ったが、久吉の「鬼神」の如く勇ましい戦いぶりを敵将も讃え、その壮烈な死を惜しんだという。

 勇猛果敢さが伝えられる久吉は、どのような少年だったのだろう。『補修 會津白虎隊十九士傳』に、「身躯長大で十六の少年とは見えなかった、従って彼又儕輩(さいはい)を小兒視した、始め白虎隊に編入せらるる處(ところ)であったが、久吉之を屑(いさぎよし)とせず、其の兄源之助(後主水)が越後新預(あずかり)地(陣屋即ち政廟は小出島にありき)郡奉行兼幌役を命ぜられ、自ら募りたる兵員(主として軽き家人)八十名許(ばかり)を率いて赴任するにより、此の隊に属して越後に出陣したが閏四月廿六日三國峠の初陣に戦没した」との記述がある。長身だったからこそ、家伝の長槍を自在に扱えたのだろうし、実際彼は相当な使い手だったと思われる。当時の会津藩には新式の元込め銃が少なく(値段が旧式の先込め銃の3倍したらしい)、その為か刀剣や槍に自信のある者はそれらの武器で戦うことを望んだと言われる。刀は武士の命であるから、「剣に生き剣に死す」ことが武士の本懐であったに違いない。久吉は槍の名手であったので、剣を槍に持ち替えたのだろう。豪胆で強気な性格の彼のことだから、蛤御門の変で三番槍の活躍を見せた兄に負けない働きをしたくて、兄の制止も聞かずに先陣を切ったのではないだろうか。

そんな久吉にも、面白い逸話がある。「釣が好きで時々大刀を背に負ふて魚野川の邊(辺)に出かけるが餌を付けるのが大嫌ひでいつも附近の子供に付けさしたものだ」(『三國峠戊辰戦争に於ける町野久吉戦死の實相』より)
餌を付けるのが大嫌い、とは、付け方が下手だったのか、それとも生きた餌(ミミズとか)に触れるのが苦手だったのか…? いずれにしても、微笑ましい話だ。

町野家は会津藩上士の家柄であったから、若松の郭内に邸があった。その場所は本二之丁、桂林寺通りから西へ3軒目の北側(諏訪宮の近く)で、日新館の学区割では飯沼貞吉と同じ二経塾一番組になる。学友であった久吉と貞吉は、おそらく一緒に釣りに出掛けたこともあっただろう。貞吉が、嫌々ながらも(?)餌を付けてやったのかも…等と想像(妄想!)すると、楽しくて仕方がない(笑)。士中二番隊では、多賀谷くんとか笹原くんも同じ学籍なので、彼らも一緒だったかもしれない。もっと逸話が残っていれば、と残念に思う。

 タイトルの「きらきらしいひと」は、中村彰彦氏の小説『その名は町野主水』にて久吉と初めて会った小出島の人々が口にした、久吉を形容する台詞である。その容姿だけでなく、激しく生き、美しく散った彼の生き様そのものが、きらきらしくあったと言っても過言ではないだろう。

久吉の墓碑は、昭和35年、甥(町野主水の息子)である町野武馬氏によって群馬県利根郡新治村永井にある駒利山に建てられた。碑の正面には、「会津藩士白虎隊 町野久吉墓」と刻まれているという。また、兄・主水の墓がある会津若松市の融通寺には、久吉の首塚がある。いつか是非…お参りに行きたいと思う。


羽角


special thanks to : 音様@風花  (史料の件ほか色々お世話になりました!)



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