寄合白虎隊 戦歴
寄合隊の出陣から降伏までの戦歴を表にしてみました。右端の士中隊の動きは参考までに記してあります。尚、日付はすべて慶応四年(明治元年)、旧暦です。
日付 | 白虎寄合一番隊 | 白虎寄合二番隊 | 白虎士中一、二番隊(参考) |
7/12 | 越後口への出陣命令が出る。 | 7/8、士中一番・二番隊、若殿(松平喜徳)を護衛して福良村へ出張。この日より毎日、訓練を若殿に披露。 7/25、福良を出発。原村泊。 7/26、喜徳公の見禰山参拝に随従、猪苗代にて宿泊。 7/27、若松帰着。 7/28、士中一番隊、藩主・松平容保に従い、高久村の本陣へ向かう。 士中二番隊、若殿の護衛にて城で待機。 7/29、藩主・松平容保と随従の士中一番隊、坂下に移動。 8/1、士中一番隊、藩主・松平容保と共に野沢村に到着。 8/3、士中一番隊、訓練を藩主に披露。 8/13、士中一番隊、藩主・松平容保と共に坂下到着。 8/14、藩主・松平容保と随従の士中一番隊、高久村を経て帰城。 |
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7/15 | 早朝、一番隊は本三之丁の原早太邸、二番隊は米代三之丁の太田小兵衛邸に集合。若松城を出て、七日町口より出発。夜は天屋泊。 | ||
7/16 | 束松峠を越え、野沢着。同所にて宿泊。 | ||
7/17 | 早朝に出発。車峠、鳥井峠(現在の福島県と新潟県の境界)を越え、津川着。同所にて宿泊。 | ||
7/18 | この日より津川に駐留。洋式訓練を毎日行う。 | ||
8/1 | 津川を出発、赤谷口へ向かう。新谷宿泊。 | 津川を出発、舟で石間口へ向かい、到着。対岸の左取村の守備に就く。 | |
8/2 | 赤谷に到着。 | ||
8/4 | 石間へ引き揚げる。 | ||
8/5 | 散発的な小競り合いより、東西両軍の先鋒隊が衝突。赤谷の戦いが始まる。 | ||
8/6 | 対岸の滝谷新田へ攻撃。 会津軍の勢力は、白虎寄合一番隊の他、上田伝次郎隊、力士隊、猟師隊、地方士隊、朱雀足軽隊など。 西軍の勢力は、新発田藩、薩摩藩、長州藩、芸州藩、御親兵など。 |
津川へ引き揚げる。 | |
8/8 | 西軍の赤谷への砲撃が始まる。 | 再び左取に渡り、胸壁を築く。 会津軍の勢力は、白虎寄合二番隊の他、砲兵隊、別楯寄合隊など。 |
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8/10 | 左取の戦いが始まる。 朱雀士中四番隊二番小隊の援護を受け、一旦敵を撃退したが、反撃に遭う。 星勇八、百瀬外次郎、小松八太郎が戦死。外次郎は石間退却直後に息を引き取り、八太郎は12日に死去した、とも。 |
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8/11 | 対岸の石間へ退却。 | ||
8/12 | 軍事奉行並の一柳幾馬を中心に、会津諸隊が作戦会議を開く。攻撃開始の日時を14日払暁(午前4時)と決め、合言葉等の確認。 | 石間の守備に就く。 | |
8/13 | 望月辰太郎(後の中隊長)、津川の軍事局に援軍を依頼に行くが断られ、陣将の家老・上田学太輔に直談判、朱雀足軽四番隊(横山隊)の派遣約束を取り付ける。←しかし横山隊の到着は翌日の赤谷の戦いに間に合わなかった。 | ||
8/14 | 赤谷の戦い。 序盤は会津軍が優勢だったが、夜が明け、西軍にスナイドル銃(元込めライフル銃)を持つ長州藩の奇兵隊が加わり、形勢が一変。窮地に立たされ、白兵戦を繰り広げる。 佐々木新六郎が戦死。(←『若松記節略』には、佐々木佐左衛門と共に8/15に戦死とある。佐左衛門は新六郎の父で、一柳幾馬の率いる玄武隊に所属。一柳が軍事奉行並となり、玄武地方士を率いることになったので、その隊に加わった。翌15日、愛息の後を追うように戦死) 夕刻、綱木に退き、新谷にて夜営。 |
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8/15 | 新谷の戦い。 赤谷より駆けつけた朱雀足軽四番隊(横山隊)と共に敵を迎撃するが、敗れて新谷村に火を放ち、諏訪峠を越えて津川へ退却。夜10時過ぎに到着。 |
早朝、赤谷口の敗戦と味方の退却の報せを受ける。 夜、津川へ退却。 |
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8/16 | 津川の対岸、角島村の西軍と砲撃戦が始まる。 | ||
8/22 | 士中一番・二番隊に登城命令。 士中一番隊、若殿の護衛にて待機。 士中二番隊、藩主・松平容保に従い、滝沢へ出陣。 午後2時過ぎ、戸ノ口原に向かう。 午後4時頃、戸ノ口原の戦いが始まる。 日没後、大雨の中で夜営。 |
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8/23 | 早朝、濃霧の中、母成峠の敗報が早馬にて届く。 陣将の上田学太輔はじめ会津全軍は、若松城の情勢に危機感を募らせ、津川からの引き上げを決める。 |
士中二番隊、夜明けより戦闘開始。赤井谷地へ移動。戦い利あらず、隊士は幾つかのグループに分かれてしまう。 士中白虎一番隊、中隊長・春日和泉邸より甲賀町郭門へ。藩主護衛の為に滝沢村への出陣を命じられるが、藩主帰城の為、門前の三宅半吾邸にて警備。城下にて戦った後、春日和泉率いる小隊は三の丸の不明(あかず)門より帰城。 半隊長・生田織江率いる小隊(18名)は、亀福院と八角神社に潜伏。入城の機会を逃した為、愛宕山に移動、自刃を考えるが、第三者に諫められ中止。 この日の戦いに於いて、西村四郎、佐久間直記が戦死。小隊長・中村帯刀、坂井源吾が負傷。(←両名共、9/14の砲撃で城内にて被弾、死去) 午後四時頃、士中二番隊のうち教導・篠田儀三郎に率いられたグループが飯盛山の中腹より城下を眺め、城が炎上していると誤認し自刃を遂げる。 自刃した隊士20名 安達藤三郎、有賀織之助、池上新太郎、石田和助、石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、井深茂太郎、篠田儀三郎、鈴木源吉、津田捨蔵、津川喜代美、永瀬雄次、西川勝太郎、野村駒四郎、林八十次、間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治、飯沼貞吉(蘇生) 士中二番隊の一部、戸ノ口原より敗走の後に入城、一番隊と合併し、西出丸の守備に就く。(←合併白虎士中隊。名称を新たな白虎士中一番隊とする研究・解説書もあり) 元・士中二番隊所属で、籠城戦に参加した隊士 酒井峰治、篠澤虎之助、庄田保鐵、城取豊太郎、遠山雄午、永野兵太郎、成瀬善四郎、原三郎、藤沢啓次、宮原三四五郎、矢島八太郎、吉田錺之助 (その他の隊士は行方不明、または戦死したと思われていた) |
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8/24 | 津川からの引き上げ戦が始まる。 高崎駒之助(一番隊)が重傷を負う。若松撤退の先発隊によって後送されるが、八木山宿の村人達の手厚い看護の甲斐なく、9月5日に息を引き取った。 |
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8/25 | 藤森八太郎(一番隊の教導)が戦死。 | 士中白虎一番隊、豊岡神社の守備に就く。 | |
8/26 | 津川より後退。 小競り合いが続く。 |
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8/28 | 舟渡・窪村の守備に就くが、西軍が大挙して襲来。 | 舟渡・朝立を守る。 | |
8/29 | 舟渡の戦い。 星八弥、黒河内八十記が戦死。 |
舟渡・朝立の戦いが始まる。 | |
9/1 | 山本太郎、鈴木平助が朝立にて戦死(8月29日かも?)。 | ||
9/5 | 舟渡・窪村に退却、その途上で西軍と一戦を交える。 岸彦三郎が戦死。 |
舟渡・朝立での退却戦。 | |
9/6 | 半隊長・佐藤清七郎に率いられた半隊14名が、二番隊と共に若松城に入城。→生亀三郎、大竹直次郎、木沢治八、北村栄蔵、黒沢逸記、小林直太郎、清水丈八、島影幸次郎、鈴木竹次郎、高田栄介、高木八郎、高橋重郎、野村房之助、林文吾 別の半隊は中隊長・原早太に率いられ、朱雀足軽四番隊と共に山崎の守備に就く。 |
材木町口より若松城に入城。松平喜徳に拝謁、三の丸の守備に就く。 | |
9/11 | 熊倉の戦い。 遠藤嘉龍二が負傷。(10/7に死去) |
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9/12 | 熊倉の南の宿営地、小沼村を出立、塩川へ向かう。 塩川に集結したのは、白虎寄合一番隊の他、家老・一ノ瀬要人を総督として、陣将・上田学太輔、諏訪伊助、朱雀士中四番隊(町野主水隊)、朱雀寄合二番隊、青龍士中三番隊、誠志隊など。 |
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9/13 | 夜半、塩川を出発し一ノ堰へ向かう。 | ||
9/14 | 佐藤清七郎の半隊、若松城三の丸より小田垣へ出撃。 半隊長・佐藤清七郎が戦死。 |
若松城三の丸より、小田垣へ出撃。 小隊長・小川郷左衛門、青山勇之進、安恵助三郎が戦死。 |
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9/15 | 一ノ堰の戦い。 中隊長・原早太、池田勇太郎、若林八次郎、樋口勇四郎、好川瀧三郎、鈴木五郎が戦死。 小隊長・大場秀之助が重傷を負う。 |
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9/16 | 戦死した原早太隊長の後任として、望月辰太郎が新しい中隊長に就任。 | ||
9/17 | 一ノ堰の戦い。 朱雀寄合二番隊と共に、大川を渡り、福永村へ向かう。午後11時過ぎ、到着。 江川次郎八、木村次郎、関原繁太郎が戦死。 |
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9/18 | 福永村の本営にて、表彰を受ける。 一ノ堰での戦功により、寄合白虎一番隊は三階級特進にて近習一ノ寄合席(黒紐=独礼御目見え。藩主に単独で謁見可能な階級)に昇進。白虎士中二番隊(元の白虎士中一番隊と士中二番隊の生存者による合併白虎隊を、新たに白虎士中一番隊と称した為)と改称。望月辰太郎がその中隊長となる。 |
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9/22 | 開城、降伏式。 | ||
9/23 | 猪苗代での謹慎に入る。 | ||
9/25 | 城外にて降伏。 塩川での謹慎に入る。 |
参考文献 : 『会津藩戊辰戦争日誌』、『寄合白虎隊』ほか