蘇生者飯沼貞吉君の傳 

 

白虎二番士中隊の隊士、飯沼貞吉(後貞雄)君は、時衛一正君の次男で、嘉永六年、その家に生まれ、加納貞吉と称した。
 幼にして穎悟(えいご)、十歳で藩学日新館に入り、二経塾一番組に編入され、十五歳で止善堂に入ることが出来た。
 戊辰の年八月二十二日、隊長日向内記より出陣の触状に接し、飛び立つばかりに喜び、父君は既に東方面に出陣の後なれば、別れを母文子(雅号玉章、西郷十郎右衛門近登之君の三女)君に告げた。母君、一首の和歌を詠み、これを短冊に認め与えて激励した。

  梓弓むかふ矢さきはしげくとも
      ひきなかへしそ武士(もののふ)のみち

 貞吉君、この歌を見て大いに喜び、軍服の襟にこの短冊を縫い込み、出征した。
 その頃、君の家に藤太という忠僕が居て、十年一日の如く飯沼家に事(つか)えた。今、貞吉君の出陣と聞き、喜んで目を瞬きながら、「若様の勇ましい此の武者振り、どうぞ天晴れ手柄を立て、此の藤太を喜ばして下さい」と言った。貞吉君は藤太を連れて行く途中、家老西郷頼母の家に立ち寄った。頼母の妻千重子は時衛君の妹であれば、貞吉君を見て大いに喜び、また頼母の母律子はこの時病に臥していたが、これを聞いて起き出て、親切な教訓を細々と聞かせ、一族も皆その門出を励ましてくれたから、貞吉君は感泣して西郷の家族に別れ、やがて三之丸に至り、茲(ここ)にて藤太を宅に帰した。
 そうして容保公の御供して、郊外の滝沢村に陣取り、後出でて戸ノ口原の敵に当たった。
 八月二十三日、戸ノ口の戦敗れ、貞吉君は同僚と共に飯盛山に至り、臣節を全うするの時至れりと、刀を把(と)り、自ら咽喉を貫いて斃れた。
 偶々、藩士印出新蔵の妻即ち八次郎の母が、難を避けて飯盛山に至り、白虎隊士の屍体を見て、我が子もまた此の中に居るかと能くよく調べて見るに、衆屍(しゅうし)の中で未だ息の絶えぬ者のあるを発見し、これを背負い、滝沢村のある農家に立ち寄り、手厚く介抱したところが幸いにも蘇生することが出来た。
 その後、印出の妻は滝沢を出て塩川病院に貞吉君を伴い、また小田付(今の喜多方町)病院に移し、戦争中幾多の艱難を経て、遂に全治するに至った。因って貞吉君から白虎二番士中隊殉難の次第を詳らかにすることが出来た。
 時衛君は郭内大町通りに住し、青龍一番寄合組の中隊頭である(食録四百五十石)。
 貞吉君、後逓信省の技手より通信技師となり、勤続数十年で正五位勲四等に叙せられ、今は(大正十五年)退隠して仙台市に住んでいる。
 貞吉君の祖父粂之進一孝(くめのしんかずたか)君は年六十五、城中で負傷し御山(北会津郡門田村)の病院で死し、時衛君の弟友次郎一臣君二十六、戊辰の正月五日淀で戦死し、その弟友三郎一則君、年二十三、五月朔日(ついたち)白河の敗戦で傷つき、次いで若松自邸で没した。叔母千重子、西郷頼母近悳(ちかのり)の妻は、戊辰八月二十三日、自邸で自刃した。

        飯沼君の近詠

     皇太子殿下の飯盛山行啓をききて
  日の御子の御かけあふきて若桜 ちりての後も春を知るらん

     往時如夢
  すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべるここちこそすれ




注意 : 管理人の判断によって原文にはない句読点を入れたり、( )等でふりがなや説明を加えている箇所があります。


原文 : 宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』


二瓶由民『白虎隊勇士傳』の付記より

 白虎勇士の中(うち)、飯沼貞吉は衆に後れて至り、同僚が皆自殺せると見て周章刀を把(と)り、自ら咽喉を貫き、前に斃れた。偶々藩士印出新蔵が妻、此所を過ぎ、衆人の死骸を見て大いに驚き、なお目を注げば、衆屍の中で少しく動く者なり。傍らに至りて其の手を握れば、少し温かなり。依って抱きて瀧澤の農家某に依り介抱して、遂に蘇生す。其の後、印出が妻は瀧澤を脱し、塩川病院に貞吉を伴い、また小田付病院に伴い、乱離中幾多の艱難を経、遂に全治に至らしむ。貞吉が切りし所は全く気管を外れ、食喉に係るを以て、療養中飲食物を外出し苦悩せり。
 貞吉は飯沼時衛の二男にして、父時衛は食録四百石、職を物頭に奉し、郭内大町通に住せり。
 貞吉、現今健全にして、逓信省の属官たり。


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