4月18日(土) 晴れ時々曇り
8:00AM発のANA731便で仙台へ!
今日は朝からとても好いお天気で、仙台に着くまでずっと飛行機の窓から地上を見ていました。青い猪苗代湖と、残雪のある磐梯山がとても綺麗で…感動ものでした。
無事に空港に着いて、電車で仙台駅へ。竹さんが待っていてくれました。それから常盤さん、世宇留さんと合流して、KOKOさんのお宅へ。
KOKOさんが今日の予定をまとめておいてくださったので、まずは近くの伊達家御廟に行きました。此処は知る人ぞ知る史跡だそうで、伊達家13代慶邦の後室、養女(京都の公家・近衛家出身)など11柱の墓碑があります。
KOKOさん宅の見事な桜(写真左)と、伊達家御廟入口(写真右)
そして、竹さんの運転で幕末仙台藩(+会津藩)史跡めぐりに出発です。
KOKOさんが考えてくださった、今日の予定♪
万壽寺(額兵隊結集の地)→仙岳院(輪王寺宮御座所)→清浄光院(通称:万日堂、星恂太郎の墓所・碑)→日浄寺(坂英力墓所・碑)→東昌寺(和田織部墓所・碑)→北山霊園(若生文十郎墓所・小池家墓所)→輪王寺(飯沼貞雄墓所)→充國寺(遠藤敬止、嘉龍二墓所)→龍雲院(細谷十太夫墓所、林子平墓所)→青葉城址→瑞鳳殿(仙台藩士弔魂碑)→飯沼貞吉終焉の地→榴ヶ岡天満宮(額兵隊・見國隊碑)→保春院(玉虫左太夫墓所)。
清浄光院(写真左)と、額兵隊長・星恂太郎の碑(写真右)。
星恂太郎が隊長を務めた額兵隊は、仙台藩の洋式銃隊でしたが、出し惜しみされてか?活躍の場が与えられず、明治元年(1868)9月15日に星が独断で出撃したものの藩主・伊達慶邦に説得されて引き返しました。しかし、彼らは降伏を潔しとせず、函館戦争に参加しています。
龍雲院の細谷地蔵とその案内板
細谷十太夫は、所謂ゲリラ部隊の「からす組」(正式名称は衝撃隊)の隊長でした。彼は命知らずの博徒たちを集め、黒装束に身を包み、夜襲を繰り返したので、西軍からは大変恐れられたそうです。
からす組は「負け知らず」ということで、最近は多くの受験生がお参りに訪れるのだとか。
細谷は西南戦争、日清戦争にも従軍し、その後は林子平の墓所である龍雲院住職となり、生涯を終えました。今は彼もこのお寺に眠っています。
この前後に、坂英力、和田織部、若生文十郎、玉虫左太夫のお墓参りを。数多くの優れた人材を失ったことを思うと、本当に胸が痛みます。戊辰戦争において、仙台藩は会津藩に次ぐ犠牲者を出していますが、彼らの功績があまり世に知られていないのが残念でなりません。
今は戦国ブームで仙台・白石などを訪れる観光客が増えているそうですが、幕末にも目を向けようよ、皆さん…!
また、会津藩関係では、北山霊園にてKOKOさんのご一族墓所、輪王寺にて飯沼貞雄(貞吉)墓所、充國寺で遠藤敬止、嘉龍二の墓所にお参りしました。
貞雄氏のお墓には今回ぜひともお参りしたかったので、念願が叶ってとても満足です。KOKOさん、竹さん、有難うございました!!
遠藤嘉龍二は、ご存知の方も多いと思いますが、寄合白虎隊士です。激戦だった熊倉の戦い(明治元年9月11日)において負傷、10月7日死去。15歳でした。飯盛山にもお墓がありますが、仙台の地で家族とともに眠っています。
青葉城址の伊達政宗像(写真左)と、瑞鳳殿の仙台藩士弔魂碑(写真右)
そして、青葉城址。流石に?此処は観光客が多かったです(笑)。
昼食のあと、明治10年に建立された「仙台藩士弔魂碑」を見に行きました。
飯沼貞吉終焉の地碑
此処は、仙台逓信管理局工務部長を務めた飯沼貞雄(貞吉)が、退隠後も余生を過ごした地。彼は此処で亡くなり、その後は跡を継がれた次男の一精氏ご夫妻が1991年まで幼稚園を営まれていたそうです。現在は閑静な住宅地で、アパートが建っています。
くまのさだきち、記念撮影(笑) 飯沼貞雄が植樹した柏の木(写真右)
この柏の木は、貞雄氏が札幌から持ってきたもので、この孫木がご子孫の手で喜多方の不動堂に植樹されました。貞雄氏は、ほかに身しらずの柿などを植え、歌を詠み、故郷会津を想いつつ余生を過ごされたのでしょう。
それから、榴ヶ岡天満宮で額兵隊・見國隊碑を見て、保春院の玉虫左太夫墓所にお参りして、郊外にある但木土佐の墓所(保福寺)にも行くことができました。
夕食は、仙台名物の牛タンを。やっぱり本場の味は違うよ…!
というわけで、大変充実した仙台史跡めぐりでした。でも、まだまだ未踏の地多し!なので、是非また訪問したいです♪