夏の残り火



 オレ達のヒーロー、桜木花道の夏が終わった。
 本当は始まったばかりの夏。だけどオレ達にとって、その夏はまるで数年間にも匹敵するくらい、密度の濃い夏だった。マジな話、山王戦なんか花道にとっちゃ丸々一年分くらいの感覚があったんじゃねえのかな。
 その山王戦での怪我で、夏休みの今、花道はリハビリと称して海辺の病院に入院しちまった。本当はリハビリで入院する必要なんかないんだろうけどな、花道の場合、入院でもしねえことには悔しいだなんだと始終暴れ回ってリハビリにならねえらしいから。ま、あいつの悔しさはよく判る。中学のころからずっとダチやってきたオレこと水戸洋平には。
 花道のことが好きだって気づいたのは中学の卒業式の日、初めて花道と身体を交えたとき。ふられて落ち込んでた花道を慰めた。だから、入院三日目の今日、突然花道から電話がかかってきたときも、なんとなく判った。たぶん花道にはオレって存在が必要なんだってこと。
 真夜中原チャリ飛ばして海岸線を捜す。砂浜にはちらちらと観光客の花火の明かりも見える。それはオレ達が置き忘れた真夏の領域。その眩しさを横目で見遣って通り過ぎたオレは、遊泳禁止区域の境界線近くで花道の赤頭を見つけていた。
 やっぱり、一番眩しいのはお前だ。真夏の太陽より、キャンプファイアーの炎より、いっとう輝いてる。
 その花道の赤頭を目印に、オレは砂浜に下りた。直立不動で海を見据える花道は、オレの存在には気がつかねえ。潮風にさらされて蠢く赤い髪。三日前に別れたときそのまま変わってねえから、オレは自然にほっと息を吐いていた。
「お前が側にいねえとなんか世界が違うみてえ」
 いきなり、花道が言った。気づいてたのか? オレがすぐうしろでお前に見惚れてたこと。
「知らなかったのか? オレの耳って馬なみにいいんだぜ」
 馬なみ、ね。耳だけじゃねえだろ、お前の場合。
 一度も振り返らないまま歩き始めた花道に、オレは一言も声をかけずあとについて歩き始める。

 花道がオレをつれてきたところは、テトラポットが積み重なったその手前に古くなったボートがたくさんうち捨てられた隙間だった。簡単にいえば、空以外は見えない死角だ。なんのためにオレのこと呼び出したのかくらい、オレにも判ってたから、花道がこういう場所を見つけられたことは評価できる。こういうことに関しては、男ってのは努力するもんだ。
「調子、どうなんだ?」
「信じらんねえよ。何だか自分の身体じゃねえみてえ。別に痛えのなんか気にしねえけど、動かすと治らねえから動かすなって言われて、そっちの方がきついぜ、オレには」
「今も痛えのか?」
「少しな。身体ひねるのがいけねえみてえ」
 話してる花道は今は砂の上に寝っ転がってる。今までの花道は健康優良児そのまんまだったからな、バスケができないってことが一番堪えるんだろう。試合に負けたショックからは立ち直ってる。だから不思議だった。こんなに淡々と弱音を吐く花道ってのは。
 だいたい花道って奴は感情そのまんま表に出す奴なんだ。どどーんと落ち込んでられた方が安心する。今のお前、オレには何かの前ぶれみたいで恐ろしい。
 オレが言葉に詰まって花道を見下ろしてると、花道はふっとオレを見上げて、ちょっと笑いを漏らして言った。
「洋平、オレに会いたかった?」
 会いたかったよ。お前がどんな気持ちで過ごしてるのか、一番知りたかったのはオレだ。
「お前は?」
「聞いてんのはオレだろ」
「んなこと聞いてどうすんだよ」
 そのオレの質問には、花道は答えなかった。またちょっと笑って、身体を起こす。何だかいつもとぜんぜん違う花道に、オレは会話のタイミングがよくつかめなかった。そんな違和感にオレがとまどってると、花道の奴はどこからかにぎやかな柄のバンダナを取り出したんだ。
「これ」
 そのバンダナをオレの頭に……いや、違うか?
「な……なんだよ」
 花道の奴、バンダナでオレに目かくししようとしてやがる!
「やめろよおい! 花道!」
「お前が『キゲカ』で巻いてたヤツ。コラ、暴れんな」
 お前なあ! ヨソ様のマンガからグッズ掠めてくんじゃねえよ! ルール違反だぞそういうの!
 花道の身体を気遣ってオレが本気の抵抗をしないのをいいことに、花道はあっという間にオレを目かくししちまった。いったいなんなんだ。まさかこの状況で目かくし鬼でもする気じゃねえだろうに。
「花道、お前いったいどういうつもりだよ」
 もともと明るさがある訳じゃなかったからそれほど見えやしなかったけど、完全に見えなくなるとやっぱそれなりに不安になる。花道はもうオレの身体を押さえてなかったから、自分で目かくし外そうと思えば外せた。だけど正直花道の真意も知りたかったし、オレが外しゃ花道の奴はまた同じことをしようとするだろうから、とりあえず目かくしされたまま、花道がいるはずの方向に向かって声をかけた。
「花道、ふざけてねえでこれ、外せよ。見えねえだろ」
「……外さねえよ」
 花道の声が近づいてきて、言葉が終わった次の瞬間、オレの唇にやわらかい感触が降ってきた。不意を突かれてとまどうオレを翻弄する。花道の動きが見えないから、オレは花道の肩に腕を回して、動きの一つ一つを確かめる。優しくオレに触れていた唇から、再び抑揚のない声が漏れた。
「お前……流川に会ったか……?」
 せっかく二人でいるときに、なんで流川の話なんか。オレがお前に惚れてるって、お前知ってるはずなのに。
「オレがいねえからって流川とやったりしてねえよな」
「してるかよ」
 どっちにしろ今は夏休み中だ。広島以来見かけてもいねえよ。
「オレとやりたかったか?」
 見えないから、オレは花道の声で表情を想像する。その声は何か微妙にせっぱ詰まった感じがあって、オレは花道の中にある気持ちに侮れない不安を感じた。そういや花道と出会ってから今まで、三日も離れてたことなんかなかった。
「……やりたかった」
 オレが漏らした本音に、花道は笑いの混じった息を吐く。そしておもむろにオレのシャツを剥がしはじめた。そりゃ、オレだって何のために呼ばれたのかくらい知ってる。だけどお前、このまんまやるつもりかよ! 目かくしなんてほとんどSMだぞ!
「おい、コラ! 目かくしとれ!」
「このまんまがいいぞ。やっぱ看護婦のねえちゃんの言ってた通りだ。すっげー色っぺえ」
 看護婦? お前何言ってんだよ!
「ほら……お前身体悪いんじゃなかったのか? 無理したら医者に怒られるぞ」
 目かくしされたまま、オレはこの時点でほとんど剥かれちまってた。とにかく少しでも花道の動きを止めようとオレが言った言葉に、花道はやや手の動きを抑えて反応する。
「オレ、SEXはドクターストップかかってんだ。看護婦のねえちゃんが言ってた」
 ……まさか、まじめにそんなこと言った看護婦がいるのか? きっとジョークで言ったんだよな。真剣に悩んだ花道の顔が目に浮かぶようだぜ。
「できねえんだろ? 医者のいうことは聞かねえと」
「だからお前だけな。−目かくししてると何も見えねえから、ほんとに好きな奴じゃねえと身体預けられねんだって、看護婦のねえちゃんが言ってた。オレに惚れてんなら平気だろ? 流川じゃねえって証拠見せろよ、洋平」
 花道の奴、よっぽどオレと流川のこと気にしてるみてえだな。ま、これはオレが流川とやっちまったのが悪い訳だから、仕方ねえっちゃ仕方ねえか。これに関しちゃちくちくいじめられるだろうとは思ってたし。
「オレに惚れてる? 洋平」
「ああ、ぞっこん惚れてる」
「今のオレ、かっこよくねえ」
「どっちでもオレには同じだ」
「立て、洋平」
 目かくしのせいでちょっとふらつきながら立ち上がると、花道は予告なくオレの太腿に触れてくる。なにしろ見えないから、オレは触れられる部分の身体の準備ができない。心もとなくて、息を止めながら花道の手の位置を確認する。足先から走り抜けていくわずかな感触が、オレの身体を微妙にふらつかせる。
「花道……やっぱちょっと待てよ。あぶねえ……」
「倒さねえよ。それよかお前、少し感じてる」
 花道がオレの耳に息を吹きかける。オレが肩を竦めると、花道は軽くオレの脇の下に両腕を入れて優しく抱き寄せた。花道のシャツを通して体温がオレの素肌に伝わってくる。そうだ。オレはさっき花道に剥かれて、全部花道の視線の前にさらしてる。何か少し恥ずかしくなって、見えないからよけいに恥ずかしくなって、花道の首筋に顔を埋めた。頬に当たる花道のボーズ頭がチクチクして気持ち悪い。何だかぜんぜん見えねえから、五感のうちの一つがまるっきり使えねえから、残った感覚がよけいに際立って感じる気がする。いつもよりもオレ、花道の動きに敏感になってる。
 何だよこれ。まさかお前、知ってて……
「洋平はどのへんが感じるんだ? ……このあたりか?」
 言いながら花道はオレの背中を探り始める。ヤベ。オレ、背中は滅法弱いんだ。花道が知ってるはずねえのに。
 花道の背中に回ってるオレの手がシャツを握りしめる。反応してびくんと仰け反ったオレを、花道はおもしろそうに繰り返しまさぐった。
「だめだって……やめろよ」
「すげえなお前。感度よすぎ」
 そんな感じる訳ねえだろ! 目かくしのせいだ目かくしの!
「声出せよ、洋平。いいんだろ?」
「目かくしとっててめえも裸んなれ!」
「何でだ」
「フェアじゃねえだろうが!」
 吹き飛ばすようにオレが言うと、花道は少し動きを止めて考える気配になる。だけどそんなに長続きする訳じゃねえ。花道は不意に身体の高度を下げて、そこに辿り着いていた。
「オレ、今までお前のことあんま見てなかった気がすんだ。見てても気づかなかったことも多かったし。だけどお前はいつもオレのこと見てた。何か足りねえ気がすんだよ」
 だから今その足りねえ分見てるって言いてえのか? なにも今、ここで、見るこたねえだろうが。
「見えねえくても感じてるだろ? 今お前、オレに感じてビンビンだぜ」
 そうして花道に触れられた瞬間、オレは真っ逆さまにおっこちる飛行機に乗ってるみたいな急降下していく自分を感じた。よたついて花道の頭を掴み、そのまままだ伸びきってない花道の髪の毛にぶら下がろうとした。滑って倒れそうなオレを花道が支える。支えた格好のまま触れられた生暖かい感触が、オレをさらにふらつかせる。
「お前……なんかものすげえ楽しんでんだろ!」
 この状況でオレが喘ぎ声なんか出したら花道喜ばせるだけだ。それに、完全なSMになっちまう。意味のある言葉をしゃべってた方がましだ。だってオレ、今やたら感じてる。
「う……お前……すっげーヒキョーモン……」
 絡め取る舌の動きに反応しまくる身体を支えられなくて、花道の肩に指を減り込ませる。身体の動きは全部花道に伝わってるはずだ。シャツを握りしめて、身体中を縦横無尽に動き回る血液と快感との戦いはオレから平衡感覚と筋肉のバランスを奪い取る。膝のロックが危うくなる。だけどそれよりも絶頂の方が早い。
「よけろ花道!」
  ――――― 覚醒 ――――― !
(……サイコーだ)
 身体の隅々から集められたエキスがその位置から体外に放出される。見えないけど、よけろと言われた花道が万が一にもよけられたはずはねえから、見えない分オレは少し心配になる。オレが体重かけてがっしり捕まえてたからな。頭からかぶってなけりゃいいけど。
「わりい。平気だったか? 花道」
 よたつきながらも手さぐりで花道の顔をなでた。少なくとも独特のぬたつく感触はない。
「……乾いたら白くなるよな」
 シャツに付いたか。
「バレバレって奴?」
「見せびらかしたる」
 本気じゃねえだろうな。花道のシャツを脱ぐ気配に、オレは砂の上に膝をつきながら思う。どこに付いたか知らねえけど見せびらかされた奴はぜってー花道のもんだとは思わねえだろうな。脱いだシャツを砂の上に敷いて、その上にオレの身体を横たえる。花道のでかい身体に身体ごと抱きしめられて、オレはもうすでに目かくしのことなんかどうでもよくなっていた。
 素肌のほてりが花道の胸に吸収される。この想いの強さ、絶対オレの方が上だ。全身で花道を感じる。お前とオレの間には誰も存在できないんだって。
「花道、今も痛えのか?」
 腹から背中にかけての包帯。触れるだけで痛々しい。
「ちょっとな。だけどなれた」
「やっぱ……できねえの?」
 ああ、そうだよ! 何とでも言ってくれよ! オレ、やっぱ花道とやりてえんだ。ドクターストップかかってようがやればやっただけ花道の回復が遅れようが、今このとき、花道と同じ身体、共有してえ。
 オレのこの言葉を受けて、花道はさらに強い力でオレを抱きしめた。あまりの強さにオレは軽いめまいを起こす。言葉を忘れたオレに花道は言った。
「よかった……洋平が見てるのオレだけだ」
 いまさら何言ってんだよ。あたりめえだろ?
「離れてたらなんかオレ、すっげー不安になった。オレがいなくなったらまたお前、ルカワやジイに走るんじゃねえかって。……そしたら看護婦のねえちゃんが教えてくれたんだ。こうやったら恋人の気持ち判るって。……お前はいつもにこにこしててオレにあんま気持ち見せねえけど、さっきのお前は不安そうでオレのこと頼ってくれたから、そんだけでいいと思ったけどやっぱカッコつけてもオレって頼りにならねえかもしれねくて、そんでもオレはお前に頼ってもらえたら最高で……」
「花道」
「オレしか見えてねえお前をバンダナに閉じ込めてオレのテリトリーに繋ぎ留めとく。情けない奴になってもそれがオレの自信になる。洋平の目がオレしか見えてねえから、それだけでオレは誰にも負けてねえんだって思える」
 初めて、オレにも判った。怪我をして病院に入って今まで培ってきた人間関係から隔離されて、花道は自分の居場所を見失っちまっていたんだ。バスケのできない自分が誰にも必要とされてないような気がして、動かない身体に一番イライラしてた。真夜中にオレを呼び出した理由は、オレとやりたかっただけじゃねえ。誰かにお前は必要なんだって言って欲しかった。お前が帰る場所はちゃんと用意されているんだって。
「いつでも思ってるさ。オレはお前のこと見てるし、頼りにしてる。お前にしか見せてねえオレ、たくさんある。これから先、オレは少しずつ変わって、お前も少しずつ変わってくけど、オレの中にあるお前を好きだって気持ちは減らねえよ」
「ほんとか?」
「ああ、絶対」
 花道はオレを力一杯抱きしめる。いつまでも抱きしめる。気持ちが増えていく。たぶんいつか、オレの気持ちは花道への想いで一杯になる。

 それは夏の終わり、新しい季節の始まりを告げる残り火。



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