外伝・時の双曲線



 村が滅びを迎えようとしている今になっても、オレの心の大半を占めていたのは、幼い頃の穢れない思い出だった。
 オレが6歳になる前の春の日、沼に沈んでしまった小さな女の子 ――


 神殿の書庫にはオレ以外誰もいなかった。おそらくオレがここを出てしまえば、そのあと訪れる神官は1人もいないのだろう。守りの長老の宿舎では、生き残った巫女たちが集まって、最期の話し合いをしている。遠く離れたその場所の緊張が伝わってきているのだろうか。そろそろ夕方になろうという時刻であるのに、書庫の周りはしんと静まり返っていた。
 オレはたった16年しか生きていなかった。神官になってからはまだ3年しか経ってない。壁を埋め尽くした1500年分の村の宝。そのほとんどは、悔しくもオレが目を通す時間を許さず朽ち果てようとしているのだ。
 ふと、廊下を誰かが歩いてくる気配がして、オレの物思いは中断した。話し合いが決着したらしい。ここへきたのが彼女であることも、彼女が伝えようとしている話し合いの結末もオレには判っていたけれど、それはあえて考えないことにしてオレはその扉が開くのを待っていた。
「シュウ……」
 ノックの音と、オレの返事と、それからゆっくり扉が開く動作があって、更に長い時間を待ったあと最初に聞こえた言葉だった。運命の巫女は書庫に入ることをためらうように立ち尽くしていた。オレより2歳年下の、まだそう呼ばれるようになってから20日も経っていない、幼い顔をした少女。
 彼女の希薄な表情に、オレはまたあの幼馴染の気配を重ね合わせていた。
「運命の巫女、話し合いは終わったの?」
 彼女はかろうじてうなずくことができたけれど、まだ部屋を入ってくる勇気は出せないようだった。オレは作業机の椅子から立ち上がって、運命の巫女の傍らに立ち、促すように背中を押した。夏のさなかだというのに少女は震えていた。オレが覗き込むように微笑むと、やっと感情がほぐれてきたのか、泣き出す寸前のような表情を返してきた。


「……シュウ、守りの長老も守護の巫女も、村を捨てることに決めたわ。あたしにはどうすることもできない。……村の運命が見えるの。村を捨てたら、村人は散り散りになってこの村が滅びてしまうわ」
 オレには何もできなかった。ただ、この幼い少女の肩を抱いていることしか。
「この先の未来には何もないの。……どうしてあたしは運命の巫女になったの? こんな未来が見たくて巫女になりたいと思ったんじゃなかったのに……」
 村を襲った巨大な災厄。多くの村人が命を落として、先代の運命の巫女も災厄との戦いで死んだ。彼女は自分が死ぬことが判っていたのだろうか。判っていて、運命に従う道を選んだのだろうか。
 オレは、こんなところで滅びるために生まれてきたのだろうか。
「オレのせいかもしれないな。……オレがあの日、祈りの巫女を助けていたら、未来は変わっていたかもしれないのに」
「シュウのせいじゃないわ! だってその時シュウはたったの5歳だったのよ。そんな小さな子が人の命を助けるなんてことができるはずないもの」
「ごめんね、大丈夫、判ってるよ。あの時オレにはどうすることもできなかった。だけど……。もしもユーナが生きていたら、ユーナが祈りの巫女になっていたら、村の災厄は防げたかもしれない。それは事実だよ」
「……いいえ、やっぱりダメよシュウ。……こんな、今まで村が経験したこともないような大きな災厄、祈りの巫女1人の力だけではどうにもならなかったわ。たとえ祈りの巫女が生きていたって、たった1人じゃ……」
 運命の巫女が言ったことは、ユーナが祈りの巫女になるはずだったことを知ったオレが、自分への慰めのために生み出した理論だ。この災厄には祈りの巫女では太刀打ちできない。もしもユーナが生きていたとしても、村の滅びが少し先へ伸びていただけなのだと。
 その時、運命の巫女は涙をこぼして、それを見られまいとするかのようにオレの胸に顔をうずめた。
「シュウ……お願い、あたしを連れて行って」
 それは、おそらく運命の巫女が初めて勇気を振り絞った、オレへの告白だった。


 彼女の気持ちはずっと以前から知っていた。そして、オレがその気持ちにこたえることができないことも。
「聞いて、運命の巫女。……オレはここに残ろうと思う」
 顔を上げた彼女の目は、見る間に見開かれていった。
「そんな……。災厄は4日後にはこの山にも襲ってくるのよ。神殿だって無事には済まないわ!」
「ああ、たぶん無事じゃいられないだろうね」
「シュウ、まさか死ぬつもりなの……?」
 そうだな、オレは死にたいのかもしれない。あの日大好きだったユーナを死なせてしまった時から、オレはもしかしたら生きていなかったのか。
 いや、オレはやっぱり生きたいと思ってるよ。この書庫の本をすべて読み尽くすまで。だってオレは、この村が1500年間蓄えてきた知識が欲しくて、この村に生まれて、神官になったのだから。
「運命の巫女、君には未来が見えるから、神殿が4日後に災厄に襲われることも、村が滅びてしまうことも判ってる。だけどオレはまだ諦めたくないんだ。……この書庫の蔵書の中に、もしかしたら既に決まってしまった未来を変える方法が埋もれているかもしれない」
 以前、噂で聞いたことがある。書庫の書物の中には禁書があって、守りの長老が管理しているんだ、って。もちろんただの噂でしかないから、それが必ずあるとは限らないし、たとえあったとしても見つかるかどうかは判らない。見つかったとしても、それは今のオレにはなんの意味もない知識かもしれない。
 だけど、たとえ万に1つの可能性でも、それがある限りオレには諦めることなんかできないんだ。
「ごめんね、オレは君と一緒には行けない」
 運命の巫女はオレを見上げたまま、必死で涙をこらえていた。その表情に、オレはまた小さな幼馴染の面影を重ねていた。

  ―― ユーナ。オレの小さな女の子。もう1度同じ人生を歩めるなら、今度こそぜったいに死なせたりしないよ。
「……運命の巫女、もしも未来を変えることができたら、その時また会おう」


 村に残ると言ったオレに、守護の巫女は可能な限りの生活物資を残してくれた。運命の巫女はずっと泣くのをこらえていた。そして、守りの長老は、さりげなく1つの場所を想像させる言葉をオレに残して村を去っていった。
 長老が残した言葉からオレが見つけたのは、今まで存在しないとされていた、1300年前の命の巫女の日記だった。この時代、この村には初めて、祈りの巫女と命の巫女とが揃った。逸る気持ちを抑えて、オレは日記を読み進めていく。彼女の日記は克明で、その時代に現われた怪物をどう退治していったのか、すべての過程をオレは知ることができた。
 この日記がなぜ禁書になったのか、読み進むうちにオレは理解していた。この日記のあちこちには、この時代に存在していた、空間や時間、人の心などを操るあらゆる秘術が記載されていたのだ。もしもこの日記が心やましい者の手に渡ったら、村どころか世界を破滅に導く可能性があった。命の巫女はそれらの秘術を村人の幸せのために使っていたけれど、村の神官や巫女たちのすべてが、彼女のような意志の強さを持っている訳ではないのだから。
 でも、載っていた秘術のほとんどはオレには役に立たないものだった。今現在の村の災厄を退けることのできる術もなかった。ただ1つの秘術を除いては。
 オレがここに残ることを選んで、この日記を読むことができたのが、神の導きだったのかもしれない。
 この日記を手にしたのがオレじゃなかったら、他の神官だったら、この日記もけっきょくは役に立たないひとつの知識に過ぎなかったのだから。
  ―― 迷いがなかったといえば嘘になる。
 秘術はそれを使った者の心を闇に染める。オレの心はその闇に耐えられずに、悪しき呪いを受けるかもしれない。呪いを受けたら、これから先村の神官として生きていくことはできないだろう。
 この力は命の巫女にだけ許された力だ。オレには秘術を操るだけの力はないかもしれない。人が分をわきまえない力を使うことを神は許さない。オレにその力がなければ、秘術を使った瞬間にオレは罰を受けて、神に命を絶たれることになるだろう。


 村の西側にある森の沼をオレは目指していた。すべてはこの沼から始まっていた。幼い頃、ユーナが沈んでしまった沼。そして、村を襲う災厄はこの沼からやってくる。
 災厄が神殿を滅ぼすまであと1日あった。山を降りると、無残に踏みにじられた村の廃墟が見えてくる。災厄の爪あとも生々しい、だが生の気配を失った村。村人が1人もいなくなった村は、馴染んでいたはずなのにオレにはまるで知らない場所のように思えた。そう思わなければ耐えられなかっただけかもしれない。
 オレの家。近くにはユーナが住んでいた家。そういえば幼い頃ユーナをよくいじめた年上の少年がいた。大人になって村を出て行った彼も、災厄についての噂くらいは聞いているかもしれない。ふらりと帰ってきて村の惨状を見ることがあるのだろうか。
 森への長い坂を上がっていく。大人になってから訪れたことはほとんどなかった。その森すらも、災厄に踏みにじられてすっかり様子が変わってしまっていた。そんな森の道をしばらく歩いていくと、少し開けたところに大きな沼が見えてくる。
 夏の日差しに輝く水面は静かで、背後になぎ倒された多くの木々を見なければ、そこが災厄の生まれる場所であることなんかまったく想像がつかなかっただろう。
 しばらく水面を見ながらまわりの気配を探っていたけれど、住む鳥にすら見捨てられた森は静かで、変化が訪れることもなく、風もほとんどなかった。これなら成功するかもしれない。オレは持ってきた袋からろうそくを取り出して、平らな場所を選んで並べて火をつけた。その中央に立って目を閉じて、頭の中で日記に記されていた古代文字の筆跡を辿る。それは自分が経験した過去に戻る術だった。何度も繰り返し辿っているうちに、周囲からは完全に音が消えて、オレには自分が立っている地面すら感じられなくなっていた。
 自然とオレは目を開いていたらしい。目の前に見える森の風景が、それまでとはまったく様子を変えていた。木々はまだ新緑の若葉をつけ始めたばかりで、まるで何ごともなかったかのように健やかにある。春の穏やかな日差しに照らされた水面が風に揺らめいている。風景は徐々に色を増してきて、それに伴ってオレの身体は色をなくしていった。そうか、オレはこのままの姿で過去に戻ることはできない。オレは5歳の幼い身体でユーナを助けなければならないんだ。


 秘術が成功した感慨にふける余裕はなかった。時は10年前の春に戻って、今オレの目の前で、ユーナが沼に嵌まって必死で助けを求めていたのだから。その手前に小さなオレがいて、ユーナに手を差し伸べている。だけどたった5歳の子供の腕が、沼に絡め取られた子供を引き上げることができるはずなんかなかった。
 術で過去に戻ったオレには幼いオレの焦りが感じられた。恐怖にこわばったまま必死に助けを求めるユーナが、何か邪な力によって沼に引きずり込まれていることも。このままじゃ同じことの繰り返しになる。オレは幼いオレの身体に同化して、心の中で話し掛けた。
(手を伸ばしてるだけじゃダメだ。何かユーナがつかまれる物を投げてやらなきゃ)
 同化した途端、オレの中に幼い自分の恐怖が流れ込んできて、過去の自分の恐怖がよみがえった。そうだ、オレはこの恐怖に負けたんだ。思わず足がすくんでしまいそうになる自分を奮い立たせて、幼いオレは森の木に絡まっていた蔓草をしっかり幹に縛り付けて、ユーナのところへ投げた。
「 ―― 大丈夫、頑張って、ユーナ。落ち着いて、ほら、この蔓草をしっかり掴んで」
 そう、ユーナに声をかけながら、幼いオレはしだいに落ち着きを取り戻していった。たぶんオレの心も幼いオレに伝わっていたんだと思う。ユーナをなんとしても助けなければ。そんなオレの必死の思いが、幼いオレを恐怖から解放したんだ。
 だけど、既に冷たい沼の水で冷え切ってしまったユーナの手は、蔓草をうまく掴むことができなかった。それにあの沼からの邪な力。そんなオレの考えを察したのだろう。おそらくオレが自分の中にいる理由も理解できないまま、幼いオレはオレに話し掛けてきた。
(沼で誰かがユーナを引っ張ってるの?)
 心の中でうなずいたオレに、幼いオレはなんの迷いもなく言ったんだ。
(だったらぼくが沼の中からユーナを押してあげればいいんだ)
 そんなことをすれば今度はオレが沼に引きずり込まれる。判っているのかとのオレの問いに、幼いオレはごくあたりまえのように微笑みながらうなずいた。


 迷っている暇はない。ユーナの身体は冷え切っていて、もがく力を失いかけている。決断の時を誤ればユーナは岸に這い上がる力さえなくなってしまうだろう。最悪、2人とも沼に沈んでしまうかもしれない。
 ユーナが死んでしまえば、オレがここにきた意味はなくなってしまう。オレは、1人の神官でしかない自分には本来許されていない力を使って、過去の歴史を変えようとした。このまま歴史が変わらなかったとしても、オレの存在の意味は変わってしまうだろう。沼に飛び込むしか方法がない以上、オレにはそうやってユーナを助けるしかないんだ。
 そのほんの一瞬の間、オレはユーナの顔を見ていた。……こんな顔をしていたんだなユーナは。どうやら想い出は常に美化される傾向にあるらしいよ。今のオレが見たらユーナはごく普通の子供でしかなくて、ユーナが他の子供とどう違っていて、オレがあんなに好きに思ったのか、その顔を見ただけではまったく思いつくことができなかったから。
 だけど、もう1人のオレ ―― 同じ身体の中にいる5歳のシュウにとっては、ユーナはその後の人生すべてをかけても惜しくないと思えるほど、大切な女の子なんだ。もちろん、大人になったオレはユーナの存在に意味を感じている。ユーナがいずれ祈りの巫女になれば、村を襲った災厄を退けることができるかもしれないと。村を平和に保って、たくさんの人を幸せにできる。オレは間違いなく成長したユーナに恋をするだろう。オレを含めた多くの人を幸せにする祈りの巫女に、ユーナはなれるんだ。
 幼いオレはそんなことは考えてもいない。ただ、ユーナが大好きだから、ユーナのことが大切だから、ユーナに助かって欲しいと思ってる。この先ユーナがどんな風に成長するのかなんてことは関係ないんだ。今、ここにいるユーナが好き。ただそれだけなんだ。
 5歳のオレの身体が沼に飛び込んだとき、オレはこの幼いシュウに負けを認めていた。もちろんオレにだって選択の余地なんかない。冷たい沼の水が一気に身体を冷やして、動きの鈍くなった腕で必死にユーナを岸に押し上げた。その同じ身体の中で、オレは邪な力を退ける術を頭の中に描きつづけていた。命の巫女の日記にあった秘術はすべて記憶していたけれど、こんな状態で術を使ってもあまり効果はないかもしれないな。それでも、少しずつユーナの身体から邪な力が離れていく。
 ユーナの身体が水面に上がれば、同じだけシュウの身体は沈んでいった。ようやく蔓草を掴んで岸に這い上がったユーナが振り返る頃には、かろうじて水面に顔が出ているだけになっていた。


 振り返ったユーナの表情には、自分が助かったという安堵の気配など微塵もなかった。沼に今にも沈みそうなシュウを、恐怖にこわばった顔で見つめていたのだ。ユーナの中に、自分がシュウに対して犯してしまった罪の意識が、澱のように静かに広がってゆくのが判る。それは、オレがこの10年間、ずっとユーナに対して抱いていた気持ちと同じものだった。
「ユーナ、お願い。……母さんを呼んできて」
 シュウはそう言ってユーナに微笑んで見せた。ユーナを安心させるために。ユーナが悪いのではないのだと、自分がそうしたかっただけなのだと、ユーナに納得させるために。長い間水の中にいて動かなくなった身体を必死に立たせて、ユーナが走り去っていく。おそらく大人を呼びに行ったのだろう。だけど、ユーナが間に合わないだろうことは、オレも5歳のシュウも判っていた。
 沼の中から引きずり込む邪な力。今、その力に引きずり込まれようとしているのに、5歳のシュウは満足していた。幼い頃、オレがずっとユーナに言いつづけていたことを思い出した。 ―― ぼくがユーナを守ってあげるよ、と。
 なんのことはない、オレも満足していたんだ。幼い頃のオレはユーナを守ってやれなかった。その約束を今果たすことができたのだから。
 オレの意識が薄らいで、オレが歴史を変えることに成功したのが判った。歴史が変わればオレがいた世界は消滅する。新しい世界にオレは存在しないんだ。だから、あの世界の住人であるオレは、ここでシュウといっしょに死ぬことになる。
(ユーナはぼくのことで苦しい思いをするの……?)
 おそらくオレの罪の意識を読み取ったのだろう。ユーナがこれからオレと同じ罪の意識を背負うことになると理解したのか。自分が死ぬ時になってもユーナのことしか考えていない5歳の自分を、オレは思わず抱きしめてやりたくなった。


  ―― ユーナ、もうじき6歳になるユーナ。君が16歳の夏には、村には必ず災厄がやってくるだろう。オレには手も足も出なかったけれど、祈りの巫女である君なら、必ず災厄に勝つことができるよ。だから自信を持って。5歳のオレが大好きだったユーナ ――

 幼いシュウの願いを受けて、オレは意識が消えるその瞬間まで、ユーナの記憶を消すための秘術を脳裏に描きつづけていた。



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