| ゲバラ笹部の「元古書店主の漂流日記」 2007年5月、6月 |
| 連載472回 2007年6月29日 職場のYサンと雑談をしていて、「今度の休みに社会保険事務所に行ってこなアカンなあ」と。 そう、話題の「消えた年金5000万円事件」である。思えば、こんなむちゃくちゃな話はありませんね。 「国民皆年金」ということで、国民はみんな、どれかの年金に入ることになっている。そして、月々、お金を徴収されている。時がたち、年金をもらえる歳になったので、もらいに行ったら、「支払った証拠があるの? 領収書、持って来て。なかったら、払えません」と言われる、というもの。 信じて振り込んだのに、いったん振り込んだら、二度と返金を受け付けてくれない、という点で「振り込め詐欺」とまったく同じ手口ですよ。 何十年も前の領収書を持っているわけがない。そして、この「領収書を持って来い」というシステムを作ったのが、自分の政治資金に関しては「領収書がなくてもOK」にしている国会議員なのだから、これほど人を馬鹿にした話はない。 さすがに領収書の件は総スカンだったようで撤回したようだ。しかし、「記録がない」とか「記録が間違っていた」などというのは、そもそも、保険や年金を扱う資格がない、ということではないだろうか。 私は、国というのは、国民に対するサービス機関であると考えている。それ以上でもないし、それ以下でもない。 議員とか公務員は、そのサービスという仕事に従事してお金をもらっている人だ。その仕事さえキチンとやってもらえれば、それで十分。というか、それぐらいは、キチンとやってもらいたい。別に「美しい国」なんか作ってくれなくたって、いいのである。 残念なことに、今回の「消えた年金」問題で、この、「国」と称するサービス機関には、年金を扱う能力がないことが判明した。では、どうすればいいんだろう。 「国民皆年金」なのだから、まずは、「国民は全員年金保険料を払っている」という前提で全額、支給するべきだろう。その上で、「保険料を払っていない可能性がある人がいたら、払っていないという証拠を、国が自分の力で見つけて、そういう人には年金を減額する」のである。何かを証明するのは、お金を払ってもらっている側の責任である。それが、民間の会社の常識だ。それがイヤだというなら、国は年金サービスを、ほんとに民間の会社に任せるしかないんじゃないだろうか。 「国民詐欺会社」の社長は、歴代の社保庁長官の責任を問うそうだが、歴代の「社長」の責任はどうなのか。 たとえば「大量破壊兵器があるから戦争した」詐欺の片棒を担いだ、先代の「社長」の責任は・・・・・。 ![]() |
| 連載471回 2007年6月22日 私は24時間勤務の仕事をしている。午前10時から翌日の午前10時までの24時間だ。途中、6時間半の休憩および仮眠時間がある。この時間に、風呂またはシャワーをつかったり、軽い食事をしたりしていると、仮眠時間はだいたい4〜5時間ぐらいだろうか。仮眠室があり、大抵の人はそこで寝るのだが、数人は自宅に帰ったりしている。私は数少ない帰宅派だ。 24時に仕事が終了し、それから家へ帰り、軽い食事、風呂と用事をすませていると、寝る時間は午前1時半〜2時ぐらいだろうか。そして4時間ほど寝ると、6時30分には仕事場へ行っていなくてはならない。仮眠室を利用したほうがユックリできるというものだが、自宅で寝るほうがリラックスできるからね。つい家に帰るほうを選んでいる。 この前、大失敗をしてしまった。そのときは22時に仕事が終わり、翌朝4時30分に出勤しなくてはいけなかった。仕事を終え、いつもどおり家に帰り、いつもどおり過ごして寝たのだが、眼が覚めて時計を見ると5時30分になっていた。 頭の中は「・・・・・・?」になっていた。 しかしそれは一瞬のことで、それからはマッハで職場へ急行したのだが、いやあー参った。 職場の者が電話を何回もかけてくれていたのだが、まったく気づかずに寝ていたようだ。あとから考えれば、目覚まし時計を止めたような記憶はたしかにある。 いい歳をして恥ずかしいのだが、私は寝起きが本当に悪い。今の仕事に、今まで無遅刻だったのが奇跡なぐらいだ。昔は色々な人に散々迷惑をかけた。 「本当ならもう起きなくちゃいけないんだけど、うううッ、あと15分。いや10分でもいい。俺を眠らせてくれ。この俺を許してくれい・・・・」 てなことを朦朧とした意識の中で考えつつ、うつらうつらしてしまう。 一応、床に就く前は時間どおりに起きるつもりで、目覚まし時計をセットし、きちんとベルが鳴ることを確認してから枕元へ置き、 「絶対に起きるぞ俺はッ!」 と鼻息も荒く自分自身に言いきかせたものだが、いったん眠ってしまうともーダメ。私は眠るとたちまち人格が変わってしまうようだ。覚醒している間は、それなりに意思が固く、真面目なところもあるつもりなのだが、眠りが足りなかったりすると別人になってしまう。あんなに固く固く「起きるぞ」と誓ったのに、目覚ましのベルが鳴るやいなやマッハのスピードで止め、 「んんん・・・・・あと15分だけ」 われながら何とも意志薄弱と言うかバカと言うか、まことに情けない次第である。 ![]() |
| 連載470回 2007年6月15日 禁煙をはじめて一年になる。よく続いているものだと我ながら感心している。禁煙しだした頃はシンドカッタ。はじめて2週間ぐらいはガムと飴が手放せなかったことを思い出す。とくに食後。これは我慢するのがツラカッタ。それと、近くで美味そうに吸っているのを見るときもツラカッタなあ。 一年たってどうかというと、今でも煙草を吸いたいと思うときがあるからエライもんだ。肉体的には、禁煙をしだして三ヶ月ぐらいでニコチンがぬけるはずだから、とっくにニコチン中毒ではなくなっている。そして前述したような、食後や、身近で煙草を吸われても、もう煙草を欲しいとは思わなくなった。じゃあ、どんな時に今でも吸いたいと思うのか。それはイライラした時だ。ストレスがかかったときに今でも煙草を吸いたいなあと思ってしまう。肉体的にはニコチン中毒ではなくなっているはずだから、これは記憶なんだな。記憶に、煙草を吸ったことがズッーと残っていて、これがフトしたときに思い出され、今だに煙草を吸いたいと思ってしまうんだからスゴイもんだ。 思えば、生まれてはじめて煙草を悪戯したのは十六歳の時だった。本当はそんなことしちゃいけないのだが、まあ時効ということで許していただこう。たしかセブンスターだったはずだ。パッケージから一本抜いてくわえ、マッチで火をつけた。ちょっと顔をしかめ、煙を深々と吸い込んでみる。きっと噎せてしまうだろうな、という予感はあったのだが、実際には意外なほどスムースに煙は肺の中へ入った。 「お、平気だ」 私は少々拍子抜けした気分で、二服三服と煙を吸い込んだ。全然噎せなかったが、その内不意に、 「クラクラクラッ!」 と眩暈がした。ふらふらして倒れそうになった。 「美味くはないが、これはなかなかすごいものだ。あなどれんな」 てなことを考えながら、あらためてセブンスターの軟弱なデザインのパッケージを眺めた記憶がある。 以来、私は煙草を嗜むようになった。大学生になってからは、何の遠慮もなくパカパカ吸った。お金がない時にはシケモクをバラして、辞書の紙で巻いて、 「何もこんなにしてまで吸わなくても」 と思いながら吸った。止めようなんて思ったことは一度もなかった。そんな私が、である。 「煙草をやめて何か変化があったの?」とよく訊かれる。 それが何にもないんだなあ。噂では、食べ物が美味しくなった、などということを聞いたりしたことがあるのだが、なーんもない。変わったことといえば体重が2Kg増えたことだろうか。テレビで映画を見ていたり、音楽を聴いているときなど、煙草を吸わなくなってからは何か口寂しくて、ついついオヤツを食べるようになってしまった。どうもこれが原因のようだ。これではイケナイと、ダイエットをしなくっちゃ、と思っている今日この頃です。 |
| 連載469回 2007年6月8日 お笑いブームがまだまだ続いている。バラエティ番組が元気だ。勢いのあるところには面白い人材がどんどん出てくる。最近ではムーディ勝山がブレイクしかけているが、先日たまたまテレビでヘンな芸人を見た。小島義雄という若手で、これがみょうに私はハマってしまった。レギュラーの〈あるある探検隊〉を初めて見たときのようなインパクトとでもいいましょうか、とにかく私的には完全にツボでした。ただ、ムーディ勝山にしろ、たぶんブレイクするであろう小島義雄にしろ、ダンディ坂野やレーザーラモンHGのように、一瞬の人気であろうと思うけど、ネ。 私の住んでいるマンションでは、犬や猫を飼っている家庭が数軒ある。犬はもちろん室内犬だ。私は室内犬を飼ったことはないが、子供のころは何匹か犬を飼っていた。 その子供のころ、犬の食事(ぼくらはこれをイヌメシと呼んでいた)といえば、冷や飯に味噌汁をぶっかけたものと相場が決まっていた。これを犬用の食器へ入れて、勝手口からサンダルなどをつっかけて犬小屋へ歩み寄り、 「まだまだ!お預けッ」 などと意地悪なことをいって、さんざん犬を焦らした挙句に、 「仕方のない奴やな・・・・よし」 と恩着せがましく与えてやる。これがごく普通の家庭に見られるイヌメシのひとときであった。しかし、誰も犬がかわいそうだなどとは思わなかった。動物虐待ではないか、などと目をつりあげる人もいなかったし、犬自身もそういうイヌメシに不服がある様子はなかった。私の飼っていた犬が育ちの悪い雑種ばかりだったせかもしれないが、とにかく昔の犬はイヌメシの準備をしている音がするだけで、 「あーッ! おれもうたまらん!」 とでもいいたげに、犬小屋を引っ張るほどの勢いで台所方面へ突進し、鎖がピンと張ってそれ以上近づけなくなると、後ろ足で立って、前足をバタバタ漕いだりしていたものである。そして、イヌメシを手に主人が現れると、ハアハアと荒い息を吐きながら、 「おれのメシおれのメシ」 と身悶えして、喜びを表現したものである。そういう犬のバカ正直な様子を目のあたりにするにつけ、 「そうかそうか。お前はそんなにメシが好きか」 と頭の一つも撫で、魚肉ソーセージの一切れも加えてやりたくなるほど愛しかった。 猫にしても同様。昔は猫の食事といえば、冷や飯にカツオブシをまぶしたものと決まっていた。夕餉に魚が並んだ際には、その骨を与えてやれば、喜んでこれを食べた。 それがいつのまに、こんなふうになっちゃのだろう? 高価なペットフードをもそもそ食べるマンション猫やマンション犬の横顔には、幸福感が漂っていないように思えるのは、私の錯覚だろうか。確かにイヌメシやネコメシは見てくれは悪いが、決して不味いものではないし、第一、残飯が彼らの胃袋へ収まるという図式は、食物連鎖の一環を立派に成していたように思うんだけどなあ。 ![]() |
| 連載468回 2007年6月1日 職場の社長が春に変わった。そのせいかしらないが作業服が一新され、それと新たに帽子をかぶることになった。これが皆に不評で、帽子をかぶっていると、今でも少し暑くなると頭に汗をかきやすくなっているのに、この先、夏になるとどうなることやら。髪の毛がロンリネスになっている人には殊に不評のようで。かくいう私は、髪の毛はロンリネスではないが、少し伸びるともう鬱陶しくて、この夏はこまめに散髪をしなければいけないかな。 私は髪の毛というものに対して、あまり関心がない。いや、髪型に対してはそれなりの関心がある。特に思春期には、髪型がヘンだと学校に行きたくなかったりしたほどだ。現在はそれほどでもないが、まあ人並み程度には気にかけている。関心がないのは髪型ではなくて、髪の毛そのものに対してである。 先ほど書いたように、私くらいの年齢になるとヘアがロンリネスになってくる人が増えてくるため、髪の毛に関心がいき、栄養をあたえたり、叩いたり、特別なシャンプーやリンスを使ったりと、本当に大変そうである。 一方で同世代のロンリーヘア派の人々が大変な思いをしているのに、相変わらず髪の毛に無関心でいられるということはつまり・・・・・そうなのである。私の髪の毛は今のところ、ロンリネスになりそうな気配がないのである。それどころか、 「もうええっちゅうねん!」 と叫びたくなるくらい、沢山生えている。いわゆる髪が多い、というやつである。ロンリーヘア派の人々からすれば、まったく贅沢な悩みである。まことに申し訳ない。 そんな調子だから、シャンプーとかリンスとかコンディショナーに対してまったく無関心で、とりあえず髪の毛の汚れが落ちれば何でもいいと思っていた。とくにリンスに関しては「あれば使うが、なくても構わん」という態度を、昔から現在にいたるまで固持し続けている。学生時代から、私とリンスはどうも相性が悪いらしくて、何だか好きになれないのである。 貧乏だった一人暮らしの頃、私はリンスを使わずに、シャンプーと石鹸だけを洗面器に入れて銭湯通いをしていた。リンスなんてばかばかしくて手にと取って見る気もしなかった。ところがある時、なんの間違いかリンスを購入してしまったことがある。スーパーでシャンプーを買ってから銭湯に行ったところ、間違えてリンスを買ってしまったことが発覚した。 いつもと同じように、中身を掌で受けて髪を洗い始めたのだが、 「あれ?」 と途中で手触りがおかしいことに気づいた。全然泡が立たなくて、いくらこすっても手応えがサラサラしている。ヘンだなと思って、シャンプーの容器をよおく確かめたてみたら、リンスだったのである。その時の悔しかったこと。「どおおおしてこのリンスというやつはシャンプーと似た容器なああんだ。え!どうしてくれるんだ」と。 この件がすべてとは言わないが、とにかく私は未だにリンスに対してはあまりいい感情を抱いていない。実力者シャンプーの庇護のもとでデカイ面をし、やたらに余計な口出しをする若い妾、みたいな感じがしてしょうがないのである。 ![]() 最近はシャンプーとリンスを目をつぶっていても間違えないようにシャンプーの方に ギザギザがはいっているようですな。 |
| 連載467回 2007年5月25日 職場の若いコ達にはサッカーファンが少なからずいる。今回ACミランが優勝したヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグも、衛星放送で予選をズッと見ていたりしている。なかには、「Jリーグは嫌いだ」というコもいるが、だいたいは、ヨーロッパのサッカーを見いの、Jリーグも見いの、という感じだ。 しかし、〈Jリーグ)とは上手いネーミングだね。これがもし〈全日本サッカー〉という地味なネーミングだったら、現在ほど盛り上がっていない気がする。それと、各チームのネーミングもイイですよね。プロ野球のように企業名をださないところが断然いい。もしこれがプロリーグ発足以前と同じように、 「ヤンマー対日立製作所」 なあんてネーミングのままだったら、どうだろう。何か機会を使ってグラウンドをほじくり返す競技でもすんのか、という誤解を招いていたかもしれない。 「住友金属対日産自動車」 という対戦カードに至っては、何だかワケ分からんけどとにかく固そうだ。 若いコがサッカーの話をしていると、必ず横あいから得意そうな顔で、 「おれなんか、もう昔からサッカーのファンで、釜本や杉山のプレーをこの目で見てるんや! 年季がちがう!」 なあんて目くじら立てちゃったりする人がいる。いいじゃないの、昔と比べてサッカーの人気が上がったんだから。ガラガラの観客席にぽつんと座って観るよりも、大人数のなかで声を張り上げて応援する方がみんな楽しいに決まっているんだから。 そういえば、私が子供だった頃、サッカー盤のゲームがあった。小学校の4年ぐらいだったろうか、同級生の家に遊びにいって初めて見たのだが、たちまち夢中になった。 サッカーコートをかたどった盤面に、薄い金属製の選手たちが舞う(というかくるくる回るだけなんだけど)例のアレである。盤の側面に突き出した棒で、それぞれの選手たちをコントロールするわけだが、今思うと、おそろしく原始的な仕掛けだ。何しろ選手たちは、盤面に穿った溝に沿って前後にしか動けない。 「今だ稲妻シューーーーーーートッ!」 なあんて言っては当時盛り上がっていたものだが、その動きは蹴ると言うよりも弾くと言った方が適切なものに過ぎなかった。今にして思うと、ああやって一々声を上げたりしていたのは、物足りない何かを騒がしさでカバーしようとしていたのだろう。しかし、子供だった私達はこの他愛ないゲームに熱中した。友人四人とリーグを結成し、ノートに試合結果をつけて優勝を争ったほどである。 もし、あの頃にTVゲームがあったら。考えるに恐ろしい。きっと夢中になっていただろう。そう思うと、子供騙しのサッカー盤しかなくてよかった、と思う。 ![]() |
| 連載466回 2007年5月18日 先日、用事があって車の運転をした。知り合いの車を借りたのだが、車を運転するのは4年ぶりくらい。運転する前はすこしビビっていたのだが、怖かったのはほんの数分ですぐに馴れて運転できた。自転車に乗ることや泳ぐことと一緒で、意外と体が感覚を覚えている。そして日頃、原付バイクに乗っていることも大きいようだ。仕事で車に乗っているころは運転するのがキライだったのだが、久しぶりに乗ってみるとチョット楽しかったなあ。 ここだけの話だが、私はミニスカートに弱い。 暑い季節になってくると、自然と服装は薄着になってくる。そして女性のミニスカート姿も増えてくる。なかには、トンデモナイほど短いミニスカート姿の女性がいたりする。 駅の階段なんか昇っている際、ふと見上げた四、五段先をミニスカートの女性が昇っていたりすると、 「おおおッ!」 と思わず拳なんかを固めてしまう。しかもその女性が大胆な性格で、下方から見上げる視線など意に介さない様子であったりすると、 「生きててよかった」 としみじみ思ったりする。 自己弁護をするわけじゃないが、ミニスカートの女性に対して、こういう気持を抱くのは私だけではないと思う。おそらく、男性のほとんどは考えていることは同じだと思う。そしてさらに言うと、スカートの中身であるパンツは「やはり見えないより見えた方が嬉しい」という意見がほとんどだと思う。 どうして男性は、女性のパンツに対してこんなにもコダワリを持つのか? 冷静に考えてみれば、女性のパンツなんてただの布きれではないか。そう思うのだが、いざ突風に煽られてスカートがめくれ、パンツがちらりなんて場面に遭遇すると、冷静に考えることはできない。 パンツくらいでいい大人が・・・・・と、女性の方々は思うであろう。男性にしても、自分自身のこの過剰な反応ぶりにはいささか手を焼いているのである。 パンツが見えたからといって月給が上がるわけではないし、パンツが見えたからといってその女性と怪しい関係になれるわけではない。そんなことは自明の理である。にもかかわらず、男性は女性のパンツがちらりとでも見えると、 「生きててよかった」 と思っちゃうのである。これは実に不思議な現象だ。 さらに言うと、そのパンツの持ち主(つまり穿き主)の年齢により、男性の反応には微妙な作用がはたらく。例えばその女性が二十代だったりすると、 「俺、生きててよかった」 と思うのに、六十代の女性が階段ですっ転んでパンツがちらりと見えちゃったりすると、 「俺、死にたくなった」 というものに変わる。 などというとりとめもない疑問を抱きながら、私は今日も階段を昇るのである。ううむ、ちょっと馬鹿みたいだが。(今回は女性の皆さん、ゴメンナサイ) ![]() 千里ちゃんの美脚に ときめいたのも もう遠い昔 |
| 連載465回 2007年5月11日 今月、エイモス・ギャレットが来日するそうな。なんでも15年ぶりだとか。九州から北海道まで17ヶ所のライヴ・ハウスを周る予定のようだ。私の地元である吹田のライヴ・ハウスにも来るということを聞いて驚いた。決して卑下するわけじゃないが、なんでまたこんな所へって、ネ。この企画はトムス・キャビンの「聴かずに死ねるか」シリーズの第2弾だそうな。第1弾は「トニー・ジョー・ホワイト」だったそうである。 エイモスといえば、やっぱりマリア・マルダーの「真夜中のオアシス」のギタープレイだろうか。ジェフ&マリア・マルダーの「ジョージア・オン・マイ・マインド」でのギターも捨てがたい。捨てがたいといえば、ギタリストではあるけれど歌もなかなかにシブイ。本人にすれば余技的なものかもしれないが、これがイイんだなあ。 私は「Amosbehavin'」という’82年のソロ・アルバムを持っているが、この中に『IMOJOCHU』という曲がはいっている。このタイトルからして、親日家なのか、はたまたファンの多い日本向けのサービスなのかわからないが好感は持っています。 ローウェル・ジョージ、デイヴ・メイソン、マーク・ノップラー、リチャード・トンプソンなど、好きなギタリストはたくさんいるが、〈グッド・タイム・ミュージック〉を代表するようなエイモス・ギャレットはなかでも好きです。2週間ほど前の情報だと、前売りは完売で、当日券が少し残っているということだった。しかし、あのエイモスが吹田にネエ。 エキスポ・ランドのジェットコースター〈風神・雷神〉で痛ましい事故があった。私は何年前か忘れてしまったが一度だけ乗ったことがある。今はもうそうでもないが、一時期「絶叫マシーン」のマニアだった頃がある。 その昔、1960年代の遊園地といえば、何ちゅうかこうサザエさん的なほのぼのムードが売り物で、ようするに家族がターゲットの主たる部分を占めていたので、乗り物にしてもアットホームなものばかりが集められていた。コーヒーカップや観覧車、メリーゴーランドやウォーターシュートなどである。もちろん当時は今のような技術力もなかったから、せいぜいジェットコースターを作るのが精一杯であったのかもしれない。しかしこのジェットコースターにしても、当時のものは音ばかりがガーガーうるさくて、その実体はちっとも〈ジェット〉ではなかったように思う。 それが今や、日本全国どこの遊園地へ行っても絶叫マシーンが目白押しで、ほのぼのというよりもバイオレンスな雰囲気に満ちているのである。ジェットコースターもどんどん角度を急にして文字通り〈ジェット〉なスピードを実現したし、それだけでは物足りずに後ろへ回ったり前へ回ったりヒネッたりフリ回したり揺さぶったり締め上げたり丸めたり、んもう大変な騒ぎである。 さて、遊園地に漂う雰囲気はノンビリがいいのかバイオレンスがいいのか。 ![]() 2004年に出たこのアルバムも輸入盤でしか買えませんでしたが、今回の 来日にあわせて、今月ついに国内盤発売となりました |
| 連載464回 2007年5月4日 職場のE君、T君、それとOサンとSサンが辞めることになった。それぞれ退職する理由は様々だが、とにかく辞めるということで、合同の送別会をやることになった。私にも出席してほしいと声がかかっている。 正直、私はこういう場が苦手だ。なぜなら、私は酒が飲めないからだ。 酒が飲めない、と憚りなく公言できるようになったのは30歳を過ぎた頃だろうか。二十代の頃はなんだか恥ずかしくて、小さい声で言っていたような気がする。酒くらいヨッシャヨッシャと勢いよく飲めなければ男らしくないのではないかと思っていたのだ。ま、若気の至りと見栄とでも申しましょうか。 どうも世間には男らしさと大酒呑みを結びつけたがる風潮があるので、下戸は男の風上に置いてもらえなかったりする。よおく考えてみれば、いや大して考えなくても、そんなの全然結びつかないことはすぐに分るはずなのに、このオロカな風潮は、日本特有のものだろうか? とにかく現実の日本社会は、相変わらず男らしさと大酒呑みを関連づけたるばかりで、その風潮が改善されそうな気配はない。とくに私なんか、色黒で、ヒゲを伸ばしているという風貌だけで、当然かなり呑めるものと頭っから決めつけられていたりするからなおさら困る。 それにしても、酒が呑めない私なんかからすると、どうしてああまでして大酒を呑みたがるのだろう? 冷静になって考えてみると、実にばかばかしいことではないか。酒自体が美味しくて、それを味わって呑んでいる内ならばまだしも、ベロンベロンになるまで呑むなんて。呑んだものをオゲオゲ吐いても更に呑み、翌朝頭が痛くなっても更に呑む・・・・。それに金を払っている自分がイヤにならないのだろうか。 てな正論を、以前に知り合いとの雑談中にぶつけてみたところ、あっさり足元をすくわれてしまった。某サンは、そりゃ下戸のひがみやな、とでも言いたげな顔をして、こう答えたのである。 「それは、前後不覚になりたいからやろ。ベロンベロンになって自分を失うのが気持いいから、そのことに金を払ってるんやな」 「あ、そうか」 私は呆気なく納得した。花が散るのは咲くからなのだと、今更気づいたような感じ である。なるほど、酔っぱらうシアワセというものが、この世にはあったんだ。確かに傍目にはみっともなくて、ああはなりたくないもんだなあ、なんて思ったりするけど、その実酔っぱらっている本人は結構シアワセなのだ。理性を失ってぽよよ〜んとした幸福に包まれているのだ。もちろん長続きはしないし、後になってから手痛いシッペ返しがあるけれど、ね。 私なんか、理性を失ってぽよよ〜んとした幸福に至る前に、すぐ気持が悪くなったり眠くなったりしてしまうのである。束の間でも幸福が味わえるなら、ひょっとしたら私だって毎日酒を呑むかもしれない。そうなれないのは、やはり体質なのだろうか。だとしたら、何だか損な体質のような気がする。 しかし、呑めない私が酒席にいるのはちょっとツライ時がある。さあ、送別会はどうしようか。 ![]() |